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女優 サヘル・ローズさんが語る、母 フローラ・ジャスミンさん。苦労と困難を乗り越えて、娘を守り抜いた母

2021.04.27

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あらゆる苦労と困難を乗り越えて、娘を育て、守り抜いた母


私を引き取ったことで、母は両親と絶縁状態になっていました。イラン・イラク戦争で荒廃した国で、両親の援助を断たれた母は、生きていくために日本に留学していたイラン人の夫を頼って93年、来日することを決めました。

ずっと、誰かの瞳に自分だけが映ることを望んでいた私は、母と暮らし始めてようやくその安心感を得られました。でも、母は朝から晩まで働き通しです。小さなアパートで3人暮らしを始めてしばらくすると、母の夫との関係が悪化してしまい、家を出て2人で暮らすことになったのです。

日本の人は親切だったし、子どもの私はスポンジのような柔軟さや、校長先生のおかげもあって、日本語もすぐに習得し、友達もできました。でも、今ほど日本に外国の人がいなくて、英語表記も、困った人のシェルターのような場所もなかった当時、知り合いもなく、コミュニケーションもままならない母は、本当に大変だったと思います。


テヘラン大学で心理学を専攻していた母は勉強することが好きな人で、大学院を出て心理学の教授になるつもりでした。でも、私を引き取ったために、異国の地で必死に働かざるを得なくなったんです。自分は食べなくても私には与えるし、自分には何も買わなくても、私に必要なものは揃えてくれる。鰹節じゃないけれど、母はまさに自分の身を削っていたと思います。

絨毯

12歳から高校生まで、フローラさんと一緒に絨毯を織る仕事をしていたサヘルさん。織機にかけた経糸が途中でボロボロになったという未完の絨毯を自分たちのものにした。ふたりの生活を支えた大切な品。

「血のつながりはないけれど、あなたを娘として誰よりも深く愛せる自信があります」── フローラ・ジャスミン


どうしてそこまで身を挺してくれたのか。それは母自身が、自分の母親の愛を受けていなかったからです。15歳まで祖母に育てられた母がmadarと呼ぶのは祖母でした。週に何日かは産みの親のもとで過ごすけれど、母が一緒に暮らしたのは祖母です。母は、ボランティアで養護施設の子どもたちを世話していた祖母の姿を見て育ちました。祖母は大腸がんで亡くなる前に、“孤児を育てなさい。血のつながりはなくても、その子を立派にしてあげて”と、母に伝えたそうです。

祖母が亡くなり、15歳で親もとに戻ったものの、親とも兄弟とも距離があり、ストレスで命を断とうと考えたほど、母は精神的に壊れかけていました。結婚を急いだのも、早く親もとを離れたかったからだといいます。大学院で勉強中、革命に続いて戦争が起きて、女性の立場が苦しくなるなか、ボランティア活動を始めた彼女の胸中で、祖母の言葉がどんどん大きくなって……そんなとき、母は私と出会ったんです。

それまでも母はたくさんの子と会っていましたが、会った瞬間madarと呼ばれたとき、自分が祖母を呼ぶのと同じ響きを感じ、自分が会うべきはこの子だったのだと、そう確信し、覚悟したのでしょう。

目の前で自分をmadarと呼び、手を差し出してきた私の手を握っただけで、母は特別なことをしたつもりはなかったそうです。

「真に人を支える」とは


ずっと私のことを支えてくれた母に何も返すことはできないけれど、それでも今は全力で、彼女を幸せにしたいと思っています。ただ、数年前、母にがんが見つかり、一生、母といることはできないという事実を突きつけられたとき、私は自分自身が自立しなければいけないことに気づきました。

病気で弱くなった母がある日、私に“ごめんね”といいました。本来、孤児を引き取るのは裕福な家庭で、養子縁組はその子を幸せにするためのもの。異国の地で路上生活や、食べるにも困る生活を強いた自分はあなたの人生を滅茶苦茶にしたと、母は泣きながらいうのです。私はそんなふうに思ったことなど一度もなかったし、大学院を卒業して教壇に立つはずだった人に、今は関係を修復したとはいえ、家族との縁を切らせてしまったのは私です。

私たちはお互いに“ごめんね”という気持ちでいました。本当に苦しいとき、母は強い親を、私は優等生のサヘルちゃんを演じていたけれど、互いの弱さや傷を共有できたとき、それまでよりも相手を理解できたと思います。

サヘルさんがフローラさんから受け継いだ指輪

母から娘へ、サヘルさんがフローラさんから受け継いだ指輪。石の表面には、イランで最も有名な詩人、ハーフェズの詩の一節が記されている。

10年ほど前、私は貧困地帯の子どもたちと、彼らを支援する若者にスポットを当てる番組の司会を担当させてもらいました。母との縁がなかったら、私もこの子たちと一緒だったのではないか。教育の機会や生きる権利を奪われている彼(彼女)らと会って、そう思い、まずは自分の国と、カンボジアの子どもたちの支援を始めたのですが、そのとき母にこういわれたんです。“外国への支援も大事なことだけど、自分たちがお世話になった日本にも、できることをしてほしい”と。今、日本では2つの施設で支援を行っています。

どんな子どもにも、可能性はあります。彼(彼女)ら自身が道を選択できるよう、背中を押してあげること。あなたたちを見ているよと、意思表示すること。大切なのはそういうことです。

支援は一歩間違えると支配に変わってしまうもので、かわいそうだからという支援は、私はしたくないし、支援をしてあげているという考え方は間違いだと思っています。また、延々と支援を続けることも、子どもたちの自立を阻むことになります。自分で自分の将来を考え、そのレールにのることができるよう、教育の機会を与えることで、動線づくりをサポートする。自分が母にしてもらったような支援をすることが、私のやり方です。
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