自分の作る料理で、幸せな時間と環境を創出したい
ただ、今振り返ると、私が料理の道に進んだ理由は、母が料理好きという以外にもあったように思います。
うちの家は両親が自営で旅館業を営んでいた関係で、平日の夜は父と母が一日交替で旅館に詰めていました。普通の家庭なら、夜は家族みんなで食事をして一緒に眠るのに、うちはどうして違うんだろうと、小さいときは理解できませんでした。特に、小学校低学年の頃は、夜、母が家を出ていくのがすごく寂しかったものです。
家を出る前に私を見て、「ちゃんと眠るのよ」とか「いい子にしていてね」といった言葉をかけてくれるのですが、これでもう会えなくなったらどうしようと思うとたまらなくなり、その日、最後にかけてくれた言葉を、自分で作ったメモ帳に一生懸命、書き留めているような子どもでした。
当時はまだ料理への関心はありませんでしたが、平日の夜がそんなふうだったからこそ、家族でゆっくり食事ができる週末が嬉しく、母の手料理が楽しみだったのだと思います。
「食」という字は「人を良くする」と書きます。確かに、一緒に一つのテーブルを囲み、おいしいものを食べるひとときは、人を幸せな気持ちにするものです。私が料理人を目指したのも、自分の作るものでそんな時間を創り出したかったからかもしれません。そして、今それができる環境にいることを、とても幸せに思います。
心配しながらも、寛容に送り出してくれた母
子ども時代の話をもう少しすると、私が最初に作った食べ物は、ベイクドチーズケーキでした。小学生の頃でしたね。当時、母はお菓子教室に通っていて、そのレシピの中から自分で選び、こしらえたものです。
その頃から料理への関心が深まり、中学に上がるとテレビ番組の『料理の鉄人』を観て、大鍋を振って仕上げる中華料理のダイナミックさに惹かれるようになりました。でも、家庭のガスこんろだと、火力が弱いので、思うように仕上がりません。そこで横浜中華街で中華鍋と専用の五徳、お玉を買ってもらい、シャカシャカ振りながら料理を作っていました。高校に入る頃には、将来は料理人になると心に決めていました。
料理人として最終的にフレンチを選んだのは見た目の美しさ ―― その極限といえるまでの繊細さに惹かれたからです。また、就職先として帝国ホテルを希望したのは、両親の友人の結婚式などで訪れる機会が多く、そのたびに出される料理に感動したことが理由です。
帝国ホテル東京最上階のラウンジは、専門学校時代、杉本さんがアルバイトとして初めて勤務した思い出の場所。三枝子さんに先日、同ラウンジの人気メニュー、アフタヌーンティーをプレゼントした。ただ、当時はどうすれば帝国ホテルに入れるのかわからなかったので、高校3年生のとき、直接ホテルに電話をかけて聞いたことがあります。すると「高校新卒者の新規採用は実施しておりません」と。それでも諦めずに食い下がっていると、人事の担当者が卒業生の採用実績がある調理師専門学校の名前を教えてくれました。迷うことなく、その専門学校に進んだのはいうまでもありません(笑)。
温厚でおおらかな半面、堅実な考え方をする母は、こんな私の行動を心配していたと思います。両親とも4年制大学を卒業していたこともあり、視野を広げるために大学に行くことを望んでいたのです。でも、最終的には私の意志を尊重してくれました。おかげで在学中からのアルバイトを経て、なんとか帝国ホテルに入社し、メインダイニング「レ セゾン」でシェフとして働くことができました。「レ セゾン」では、幅広い料理を任せてもらえ、充実した毎日でした。