ある日、新患がやってきた。
「てんかん発作が薬を飲んでも治らないんです」
「口をペロペロした後にガガガッとのけぞって横倒しになり、犬かきをしながらオシッコを漏らしますか」
「いいえ、深く眠っている時に手足をピクピクさせながら小さくウォン、ウォンと鳴くんです」
「なんだ、それは夢を見て寝言を言っているだけですよ」
犬と暮らしている方なら当たり前の日常だが、初心者や犬を飼ったことのない獣医師は笑いは呼吸器疾患、寝言はてんかんだと思ってしまうらしい。ちなみに犬の飼育経験がない獣医は非常に多く、全体の8割を超えている。不思議である。
ある日、診察室が大混雑している時に電話がかかってきた。
「センセ、うちの犬は歌うんです」
「どんなふうにです」
「こんなふうにです」
受話器から何だか知らないがオルガンの音がパフパフ鳴り響いた。ネコフンジャッタ、ネコフンジャッタ……いつまでも演奏は終わらない。
「もしもし、もしもし、忙しいんですが」
するとチワワらしき犬の遠吠えがかすかに聞こえた。
「ワンキャン、オオーン」
「ね?」
「オルガンに反応して遠吠えしただけですね」
はっきり言って、鳥と違って犬には音楽はわからない。しかしこのように飼い主の喜びに同調して一緒に楽しむ気持ちはある。
喋る犬は時折ニュース番組の隙間埋めに紹介されることがある。私が実際に目撃して大いに驚いたのは、その喋る犬が単なるオウム返しではなく要求を伝えるために自発的に言葉を使い分けていたことにある。
診察が終わり飼い主と世間話をしていた時、その犬は「マンマ、マンマ」としきりに喋った。「はいはい」と言いながら飼い主がおやつを与えると、今度は「イホ、イホ、オワンホ、イホ」と騒ぐ。
「さっきから犬がオサンポイコウと喋ってるんですが」
「あら、いやだ。ホントだわ」
「マンマとも言ってましたよ」
「今まで気が付きませんでした。キャッ、うちの子は天才?!」
飼い主は犬が喋るとは思っていなかったので、今まで聞き逃していたらしい。
鼻の低い短頭種、とりわけシーズーが人間の言葉を話すことが多いので、飼い主さんは注意して耳を傾けてあげてほしい。
人間的な様々な感情を持った犬たちはしかし、数や量の概念がなく、損得の意味もわからない。それが善の塊のような純真さの理由だ。
そしてまたおそらくは、死を理解できない彼らは幸せな日々が永遠に続くと信じている。
ちぎれんばかりに尾を振ってどこまでも追いかけてくる可愛い愛犬。
この素晴らしき天使たちに幸多かれと切に願う。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。東京・中野にある最先端の設備と快適な環境を備えた病院で、大勢のスタッフと共に365日休みなく診療にあたる。幼い頃に飼ったシーズーに始まり犬の飼育経験も豊富で、熱烈な犬好き。犬を操ることにかけては人後に落ちない。現在の愛犬はドーベルマンのビクター。
『家庭画報』2021年7月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。