今年は季節の進み方が少し異なるようで植物たちのめぐりもいつもより早めです。
人間の我々は? わたしたちも大いなる地球の生き物の一員ですから、天地のめぐりとどこかでリズムが重なっているに違いありません。長雨が続くこの季節、自身の心と身体、そして魂の状態に、いつもより少しだけ注意を払いたいものです。
今回はあえて茶箱を組まず、点茶に必要な最低ラインの道具をお盆に並べてシンプルに。
自分をもてなす一服を
そんなときには、お茶。特に朝の茶には心身の状態を整えてくれる力を感じます。
朝から鉄瓶でお湯を沸かし、キッチンのスタンディングスタイルでせっせとお茶を点てています。和菓子も春仕様から夏のものへと移行し、口当たりのつるんとしたものが増えてきていますから、「今年の味見」などと称していただきます。
お茶を美味しくいただくためにいちばん大切なのは、茶と湯ではないでしょうか。茶の湯とはまさに言い得て妙ですが、お茶とお湯に気を使うと日々の茶の味わいが変わるような気がします。
まずお湯。朝の忙しいときには簡単手軽にすぐに湧く電気湯沸しポットが便利ですが、我が家では鉄瓶を愛用しています。茶席の鉄釜に倣い、必ずしっかりと沸騰させます。陰と陽、水に火の力を加えるという思想。
水は近所の神社の湧き水をいただいてきます。朝目覚めると散歩に行くことが多いので、その帰り道に汲んでくるのが日課。もちろんお好みのミネラルウォーターや浄水でも大丈夫ですが、大切なのは、水を吟味し、「心をいたす」ことかなあと。
そして茶ですが、ストックしてあるものを漉してから点てます。いや、白状します。自分用のお茶は毎日漉すわけではなく、まとめて漉しています。
しかし、今日は、お茶を点てる直前に漉して、茶器にちゃんと入れました。そんなこと、いつもしているわという方もいらっしゃるかと思います。ほんとうにそう。お茶を点てる前の手順を丁寧にすると、気持ちが落ちつくなあ。もちろん茶碗も茶筅もお湯で温めます(これは毎回しています)。
そして、いつものスタンディングスタイルではなく、お盆に道具を揃えて、テーブルでちょっと息をととのえてからお茶を点ててみます。
ただ一服の茶を点てることで、自分をもてなす。マインドフルネスという言葉、すでに日常的に使われるようになりましたが、お茶を丁寧に点てているとまさにこの状態になってきます。
キッチンでの点茶でも集中するとマインドフルネスは得られるのですが、自身の内側が散漫に感じる時は、あえていつもより丁寧に、茶を点てる。始める前は「ちょっと面倒だな」と思うのですが、その気持ちを振り払って手順を追うと、いつしか呼吸が整って、穏やかな気持ちになっているのです。
お香の専門家の教えを乞う
抹茶道具を組んだお盆に、今度は聞香の道具を置いてみる。朝の習慣として、もう一つ。好きな香をたくことがあります。これは毎日ではないのですが、少し気分を変えたいとき、空気が少し重く感じられるときなどに、線香を一本くゆらせます。
本物の香木の香りを知ってから、線香もできるだけ天然成分の多い、上質なものがいいと感じるようになりました。穏やかで優しい香りはほかには代え難いものです。
そこでときには香木自体をたくことも。熱した炭団(たどん)の横に香木を置いて香りを楽しむ「空薫(そらだき)」というやり方で行います。
今回は香木の香りを最も純粋に楽しめる「聞香(もんこう)」をご紹介したいと、専門家のところへ教示を乞うことにしました。
以前、世界文化社から出版された『香木のきほん図鑑』という単行本の編集を担当したことがあります。これは京都の香木専門店の山田松香木店の会長、山田英夫さんの著書で、香木の奥深さに圧倒されながら、少しでもその魅力を伝えたいと奮闘した本です。
山田英夫さん著『香木のきほん図鑑』(世界文化社刊)。そこで当時もたいへんお世話になった山田松香木店営業部長の大杉直司さんをお訪ねしました。
大杉さんとはいつ知り合ったか記憶にないのですが、お茶の編集者として京都のいろいろな所へ出入りしていると、あちらの寺院、こちらの数寄者宅、と度々お目にかかることに。自然に言葉を交わすようになり、いつしかお茶事に招いていただいたりするようになっていました。
京都御苑の西側にある山田松香木店へ伺うと、店舗の奥にある聞香体験のための部屋に案内されました。ここではカウンターに腰掛けて、聞香の手順を教えていただくことができます。
「ふくいさんは(本の編集されたので)知っていると思いますが……、香木の代名詞でもある沈香は6種類の香りに分類されます」と、大杉さんの講義が始まりました。
はい、6種類の沈香、覚えていますが、それぞれの特徴は覚えていません。「それぞれの香木の特徴、これはやはり香りをいくつも聞いて、その特徴を覚えていくしかないのですよ」。
香木はの香りは「嗅ぐ」ではなく、「聞く」と表現します。それぞれの香り、「伽羅(きゃら)」「羅国(らこく)」「真奈蛮(まなばん)」「真奈賀(まなか)」「寸門陀羅(すもんだら)」「佐曽羅(さそら)」という6つの香木を見せてもらい、いちばんよく知られる「伽羅」と、もう一つは好きな香木を選んで、聞香体験が始まりました。
わたしは伽羅のほかに、真奈蛮という香木を選び、カウンターの向こうで見せてくださるお手本通りに、火道具を使いながら香炉の灰を整えて、灰形を作り、銀葉という板を灰の上にのせて準備完了。
畳紙の中から火道具を出し、香炉の灰を整え、香をたく。小さな香木のかけらを銀葉の上にのせます。香りの聞き方にも作法があり、そのかたちを教わります。以前にも何度も手順を見ているはずなのに、実際に自分がやると、なかなかむつかしい。「これ写真にできないわ」と呟くと、大杉さん、笑いを含みながら「仕方ないですねえ、それが現実ですから」と優しくも辛口な励ましです。
「茶」と「香」に通じるもの
香木の楽しみ方として「空薫」と「聞香」がありますが、違いは香木の香りをどのように摘出するかです。
「空薫」は加熱温度が高いので、香木の香り成分だけではなく木の部分も燃焼します。一方「聞香」は銀葉の上に香木を載せることで、純粋に香木が持つ香り成分だけが香るという究極の楽しみ方。香炉を両手で持ちながら、その香りを味わいます。
聞香に使った火道具類、それぞれ見ているだけでも美しい造形だ。小さな畳紙に包まれた6つの香木。抹茶を楽しむ世界のその先に「茶道」があるように、香木を味わう世界の先にも「香道」があります。今回は香道ではなく、「聞香」というスタイルで、その入り口を垣間見たような状況。
茶にしても、香にしても、また花などほかの芸道にしても、いずれもがわたしたちの内側に一本の筋を通してくれる力強さを秘めているような気がします。
その道はいずれもどこか命がけの部分があり、決して手軽なものではない、と。それぞれの道を極める方々に接するたびに感じます。しかし、しかし、やはり、美しいものは美しい。だから、ほんのちょっとでいいから、その一端に触れていたい。
自宅に帰って、早速復習しました。朝、お茶を点てたお盆に今度は香炉と香道具を並べて、テーブルに座ります。手順を丁寧に重ねることは、自分と向き合う作業です。
茶と香と。深遠なるそれぞれの世界を、日常でも楽しんでみる。壁に掛けている掛物は「森羅万象大文章」。近代の激動の時代を生きた実業家であり、数寄者だった松永耳庵(じあん)の書です。
森羅万象、すべての世界のことごとが、繋がっているのだなあ、と部屋の中で思いを馳せながら香をたく。外は雨。
山田松香木店では、誰でも聞香の体験ができるそうです。こんな時期ですから、少し不定期ではありますが、ご興味のある方は、ホームページなどでチェックしてみてください。