1957年5月4日、フランスの映画監督で医師のイヴ・シァンピさんとの結婚披露宴は、パリ郊外の美しい村、ヴァルモンドワで行われた。シァンピさんの親友の別荘で行われた祝宴は、三日三晩華やかに続いた。「家族」というものがむつみあって暮らすことが、わたしの果たせない夢 ──『岸惠子自伝』第Ⅴ部 孤独を生きる
Q4.娘のデルフィーヌさんへの愛情や葛藤も赤裸々に綴られていますが、今、母として思うことは何でしょう。大事な娘を私の戸籍に記入することが、喫緊の課題です。私が離婚したときの日本の法律は、私が父親でなく、母親だったために、娘に日本国籍をくれなかった! ひどい女性差別でしょう?
今さら法律が改正されても、時遅し。娘は完璧なフランス人になって、家族もいるのに、それを捨てて日本人になれるかよ! とこの自伝で啖呵を切りました(笑)。
それで娘が大学を卒業して結婚するまで、私がフランスに残った。「学費や養育費を払うのは父親の義務であるばかりではなく、権利でもある」といってくれた別れた夫の親切も退けて働くことを選びました。これは日本人としての私の役にも立たない美意識と、自己満足だったかもしれないわね。
不在がちだった私の生き方を彼女はよく耐えてくれたと思う。日本国籍のない娘は、日本へ来るのに期限付きのヴィザを取らなければならないのね。
あるとき、風邪でヴィザが2日切れていて、出入国審査の係員に、「今度こんなことをしたら刑務所行きだ」といわれて、「いくら好きでも、日本が私の国でないことがわかった」と。愛する娘のこの言葉はつらかった。
今は、ひたすら彼女とその家族の幸せを祈っています。
Q5.そのデルフィーヌさんが今作の装幀にかかわられたそうですね。そうなんです! 写真を送って装幀を考えてくれないかと頼んだら、「この写真一枚でどうしたらいいの?」といわれてしまって。でも、本の副題を伝えたら、即座に「わかった。ママの顔を割るわ」って。
彼女、発想が面白いのよ。本の装画も9種類くらい描いてくれました。30年以上前、『太陽』という雑誌に手書きのエッセイを連載していたときの挿絵も全部彼女が描いたもの。デルフィーヌも今回のことは「楽しかった」と喜んでいます。
日本の読者には、視線をもう少し上げて世界を見てほしい ──『岸惠子自伝』第Ⅳ部 離婚、そして国際ジャーナリストとして
Q6.若い世代に読んでほしいとのことですが、それはなぜでしょうか。『家庭画報本誌』の読者に読んでもらうのももちろん嬉しいのですが、ぜひ、お子さん世代、お孫さん世代に読んでほしいんです。そして、世界で起こっているいろいろなことに関心を持って、地球人として視野を広げてほしい。
私は中東やアフリカの取材で、内戦で犠牲になる人たちを目にし、胸を痛めてきました。今もシリアの人たちやミャンマーのロヒンギャの人たちのことを思うと、たまらない気持ちになります。
今の日本は世界中でいちばん平和です。平和ボケでも構わないけれど、せめて、そうではない生活を強いられている人たちが世界にはたくさんいることを認識してほしいと思います。
Q7.コロナ禍でどのような生活を送られていますか。コロナ禍の生活について、私は個人の問題だと思っているんです。政府や知事にお願いされなくても、自分で考えた対策を取ればいい。私はちょうど、この自伝を書いていたので、毎日5~6時間は執筆。ひどい花粉症なので散歩にも行かず、気分転換に庭の花や枝で花活けをしています。
ただ、孫の一人がイギリスの大学なのね。学校も寄宿舎もレストランも閉まっているので、彼の好きなお煎餅とか和菓子を送っています。自分で買いに行きたいけれど、そこは我慢。スミ子さんという素晴らしいお手伝いさんが彼の好みを知っていて、すべてやってくれています。
このコロナは世界を変えるでしょう。自分の力試しをする時だと私は思っています。
パリのシァンピ邸を訪れた巨匠、市川崑監督と。岸さんは監督じきじきのラブコールを受け、『おとうと』『細雪』『かあちゃん』など多くの傑作に出演した。