次のお宅もアパートだった。
「あ、センセ、遅かったわね!」
下着姿の中年女性にセカセカした雰囲気で迎え入れられた。部屋の奥にはやはり下着姿のお嬢さんが2人いて、3台ある鏡台の前で母娘3人が髪をブローしたり、ファンデーションを塗ったり、マスカラをつけたり、大忙しでおめかしの真っ最中だ。まるで戦場である。
「ママ、私のアイブロウどこ?」
「お姉ちゃん、私のツケマ踏んでる」
「出直しましょうか」と私。
「生まれた子猫がヨロヨロしてるの。そこにいるから診てちょうだい」
「ママー、回転ブラシ早く貸して」
子猫は明らかに異常だった。
「生まれつき小脳に問題があるようです。運動神経に障害がある子ですよ」
3人の手がピタリと止まった。
「治るの?」
「大人になればマシになるかもしれませんが、師匠に相談します」
「ああ、どうしてうちはこんなに忙しいのかしらね。父親がいないから親子3人で店に出ているのよ」
「お忙しい時間にすみません」
「上の子は高校生、下の子は中学生なのよ。店を手伝ってもらっているの。ダメな親よね」
「いえ、ご立派です」
「その猫の親も子猫を2匹連れてうちの前にいたのよ。他人事じゃないと思って飼うことにしたの」
「わかります」
「センセいい人ね、ラーメンとったから食べて行ってね」
「え!?」
「食べ終わったらどんぶりは郵便受けの横に、鍵は植木鉢の下に置いておいてね」
そう言うと、母娘はタクシーに乗って仕事に出て行った。
3軒目のお宅は住宅街の一軒家だった。この患者さんは面識があった。しかし往診の依頼は初めてだ。
「お待たせしました。メリーちゃんの病院ですよ」
「はぁーい」
よそ行きの服を着た奥さんが満面の笑みで現れた。トイプードルのメリーが尻尾を振りながら大喜びしているが、「メリーはハウス!」と命じたのを見て私は何故なのか不思議に思い、胸騒ぎがした。
「センセ奥の部屋にどうぞ~」
言われるままに進むと、テーブルの上に並べられた豪華な寿司と高級なフルーツの盛り合わせに目がとまった。
「ここにお座りになって」
目の前にはなぜか新日本髪を結った振袖姿のお嬢さんがいる。これは一体……。
「お忙しいようなら出直しますね」と言うと、
奥さんは、「うちの娘は綺麗でしょ? 大手の証券会社に勤務しているのよ」
「お綺麗ですね」
「料理も上手なのよ。理想的でしょ?」
と何だかわけのわからない話の流れになった。あらためて正面のお嬢さんに目をやると頰を赤らめうつむいている。どうしたものかと黙っていると、「センセ、冷えたおビールはいかが?」と今度は酒をすすめる。
「仕事柄お酒はやめました」と言うと、母娘は顔を見合わせてうんうんと頷き、奥さんがあらたまった調子で言った。
「センセ」
「はい」
「男と女はね。相性ってものがあるのよ」
「はい」
「今夜は一晩うちの娘とお過ごしなさい。きっと気にいるわよ」
出た。また変なことになっている。これは仕組まれたお見合いだったのだ。
以前も似たようなことがあった。お世話になった偉い先生の家に食事に呼ばれた時、やはり和服姿のお嬢さんがいて「結婚したまえ」と迫られたり、「獣医をやめてうちの家業を娘と一緒に継いでほしい」とバイク屋のオヤジに頼まれたりしたことがあったのだ。
「私は動物たちに身を捧げた修行僧です」などと言ってもダメなので、こういう場合はいつも「すごく太った女性が好みなんです」と噓をついて切り抜けてきた。今も語り継がれる“野村ポッチャリ好き説”はこんなところから始まったのだと思う。