次のお宅は郊外にある平屋の公団住宅だった。到着するや否やドアの向こうから女性の怒鳴り声がした。
「二度と来てやるものか、いじわる婆さん!」
それに続いてお婆さんの怒声が聞こえた。
「こっちから願い下げだ、オカチメンコ!」
バーンと戸が開き、ふくれっ面の女性が飛び出して足早に去って行った。
「あのー、獣医でございます」
奥からお婆さんの声がした。
「遅いよ、バカヤロー」
「すいません。お邪魔します」
そこには布団が敷いてあり、寝たきりのお婆さんがいた。
「先ほどの方の御用はおすみですか」
「あいつは訪問看護師だよ。もう来ないだろうよ」
「えーと、猫が病気ということですが」
「その辺にいるから捕まえて治療しなよ」
「いませんが」
「たぶん簞笥の裏に隠れているんだろうよ」
「呼んでくださいな」
「出てくるわけないだろ、半ノラだ!」
なんだかドッと疲れが出たが、仕方なく簞笥を動かした。すると今度は別の簞笥の裏に逃げ込む。それをどかすとまた別の場所に移動する。大変な思いをして何とか猫を捕獲した。
目ヤニと鼻水が酷く衰弱していた。これは猫伝染性鼻気管炎で原因はヘルペスウイルスと細菌の混合感染だ。適切な治療薬の注射や投薬が著効するが再発を繰り返すことが多い。
「今日の治療はこれで終わりますが、また明日にお邪魔しますね」
「あんたね、こんなに部屋を荒らしてそのまま帰る気なのかい」
家具を動かしたので長年堆積したホコリと猫の毛が床に散乱していたが、当然私は掃除をして帰るつもりだった。
「もちろんやりますよ!」
「じゃあさっさとやれ、グズ!」
布団に寝たまま怒鳴り続ける婆さんのきつい言葉はしんどいものの、大の男がこんなことで腹を立てる必要はない。さあ、本日2度目の大掃除の始まりだ。家具を全部移動させホウキで掃き、床の雑巾がけもした。ついでに洗濯ものを取り込んでたたみ、食器を洗い、枕もとの吸い口を熱湯消毒して水を満たし、トイレに行くのを手伝った。
「お兄さん、あんた親切だね。私はロシアのハーフで大変な苦労をして生きてきたんだよ。天丼とったから食べて帰りなよ」
「はい」
病院に戻ると師匠が怒っていた。
「何で遅くなった?」
「御馳走になりました」
「どんな?」
「肉まんとラーメンと寿司と天丼です」
「食い過ぎだ、バッキャロー!」
「はい!」
こんな日々を経て今の私がいる。
今まで出会った沢山の方たちに感謝しながら今日も仕事に勤しむ。まだまだ頑張れます。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。最先端の医療設備を備え、大勢のスタッフがきびきびと働く病院は年中無休で、予防医療から難病治療まで広範囲をカバーし、数多くの動物たちの命の砦として機能している。自らが熱烈な動物マニアで哺乳類から鳥類、爬虫類、魚類、昆虫まで飼育。その豊富な飼育経験が診療を支えている。
『家庭画報』2021年8月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。