ある日の午後、鬼瓦のような怖い顔のオジサンが全身黄疸になったプードルを抱えてやってきた。
「他所の病院で2か月も入院していたのにこの有様だ。もうだめだから家に連れて帰って看取ってくれと言われたんだよ……」
既に意識はなく呼吸も途絶えそうな状態だ。血液検査では何とGPTとGOTがそれぞれ2000オーバーだった。重度の肝臓病の末期である。黄疸も著しく白目まで濃いオレンジ色に染まっている。
「これは今晩死にますよ」
「何とかならないかな」
「こうなると何をやっても無駄ですが、再生医療にかけてみますか」
「何でもいいから頼むよ」
「了解しました」
さあ出でよ、再生幹細胞隊。
今再び正義の腕を振るうべし。その力をここに示せ。
かくして細胞移植したその日の夜、件の犬は意識を回復し、自力で立った。鬼瓦オジサンは実はたいして期待していなかったらしく、心臓が口から飛び出るほど驚いたという。
翌日からは通常の肝臓病治療も併用することにした。もれなく食欲も復活した。症状は日に日に恐るべき速度で改善していった。1週間後の2度目の移植の頃には意識の混濁もなくなり、尾を振って正常な犬のように振舞った。3度目の細胞移植の日には、病気の犬には見えなくなっていた。血液検査の値も完全に適正値に戻り健康をとり戻した。
飼い主は「こんな奇跡みたいな治療、誰に話しても信じる奴は一人もいなくて、世の中の人間の馬鹿さ加減に腹が立つよ」と言った。しかし、地元の獣医を恨み、犬の運命を呪って鬼瓦みたいに怖かったオジサンの人相は、恵比須様のように変わっていた。この治療法は愛犬の命を救うだけでなく、飼い主の心も直してしまう効果があったのだった。
再生医療といえばiPS細胞を思い描く方は多いと思う。しかし私が行っているのは臍帯血や皮下脂肪に少量含まれている幹細胞を分離培養して用いる方法であり、例えるならば前者がUFO、後者は最新型F35戦闘機である。まだ実用化されていない夢を待っている間は、実戦に投入できる武器で戦うのが私流だ。
ただし7年にわたる治療経験から言わせていただくと、壊滅状態の腎臓を再生させるのは無理のようだ。もっとも周囲の関連器官を復活させることによって重度の腎不全患者の生活の質を改善させることは可能であり、実際に末期の腎不全の犬が月に一度の幹細胞移植によって半年以上元気な状態で延命できた例がある。
著効するのは、神経系と肝臓系は断トツで、それ以外にも遅延治癒が発生している外科疾患や角膜疾患、アレルギーなど様々な難治性の病気に対しての効果を確認している。そして椎間板ヘルニアなどの治療中に、良い副作用として偶然的に改善された認知症や白内障に対する効果も報告しておきたい。これらの作用機序の詳細は解明中だが、我が病院では“おみくじ的に起こるオマケ”と称している。
しかし癌患者には禁忌であり、そちらに関してはこの治療を応用した別の治療法がある。
この再生医療に懐疑的な獣医師もいるが、多分自分ができないことは否定するタイプか、そうでなければ不器用で細胞の培養が不適切なために、良い結果が出せていないのだろうと思う。
本治療は前述のオマケのように不思議な事もしばしば起こるが、培養室で作業している際に、こちらの愛情に応えるように細胞たちの強い意志を感じることもしばしばで、そういう時には仕上がった彼らの生きの良さが顕微鏡下で確認できる。
実を言うと、この細胞の元になる脂肪組織の提供者が、笑顔の絶えない家庭で幸せに暮らしているかどうかもその質に大きく影響するのだが、これもまた肉眼不可視の工兵たちの実に興味深い謎のひとつである。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。診療の根底にあるのは科学する心と極上の動物愛。最先端の医療機器の導入と技術の習得にも積極的で、病院は開業医のイメージを超えた医療の要塞となっている。東京・中野に位置するクリーンな病院には、手腕を聞きつけた患者たちが全国から訪れる。動物たちの守護神として日夜奮闘中。
『家庭画報』2021年9月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。