数か月が過ぎた。中野通りの桜は葉を落とし始め、夜は冷え込むようになった。ペスは回復し、病院での健康的な生活にすっかり馴染んでいたが、時々さみしそうな顔をして窓の外を見ることがあった。私はペスに言った。
「おまえのとうちゃん、なかなか迎えに来ないな」
ペスにとっては犬の散歩を装った泥棒の下見も、他人の庭で大小便を排泄する最低の飼い主も幸せな日常だったに違いない。大きな近代的な病院ビルでエアコンの利いた清潔な個室で眠り、高級な食事を与えられ、屋上ドッグランで日向ぼっこをする優雅な生活なんかより、犬は飼い主のいる自分の家が好きだ。
私はペスの肩を撫でながら彼の心の中に入り、思い出箱のふたをそうっと開けてみた。ちっぽけな犬のちっぽけな幸せが次々と現れては消えた。仕事で稼ぐとワンカップを飲みながら食べ物をぶら下げて帰ってくるとうちゃん。とうちゃん、えびせんべい美味しかったね。夜の町でお巡りさんを見ると冷や汗をかくとうちゃん。
とうちゃん、いっしょにいっぱい歩いて楽しかったね。アパートの狭い部屋でボロい布団にくるまっていっしょに寝てくれたとうちゃん。とうちゃん、暖かかったね。やさしいやさしい僕のとうちゃん、僕を育ててくれたドロボーのとうちゃん。
ペスにとってとうちゃんこそ世界の全てだったのだろう。犬はそういう生き物なのである。
私は警察に問い合わせた。
「雨戸狙いのチュン太はどうなりましたか」
電話に出た事務員らしき女性は抑揚のない冷たい声で言った。
「お教えすることはできません」
数日後に当時の担当の刑事から折り返しの連絡が来た。
「ああ先生、どうもその節は……。実は雨戸狙いのチュン太は、先日心筋梗塞で急死したらしいんですよ。身寄りがなかったので遺骨は無縁仏に入ったと思います」
犬は不思議な生き物で最愛の主人の後を追うことがある。ペスもまたそうだった。
この季節が来ると思い出す。夏の終わりの日差しに揺れる緑の葉、古めかしいコソ泥の得意そうな顔と風になびくペスの毛並み。青く高い空のあの雲の上で、爺さんと愛犬は泥棒なんかせず幸せに暮らしているに違いない。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。ホテルのフロントのような受付とゴールデンアロワナの巨大な水槽が出迎えてくれる東京・中野の病院は年中無休。ガラス張りの手術室、埃一つ落ちていない床など、動物本位の診療哲学に貫かれたこの病院を拠点に、最新の医療機器を駆使し、動物医療に人生のすべてを捧げ、日々奮闘中。
『家庭画報』2021年10月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。