スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 さまざまな動物──鳥も、魚も、爬虫類も、両棲類も、昆虫も、原始的な節足動物も、まず自ら飼育してきた野村先生。動物たちの世話は診療が終わった後、時には朝まで。それは奇妙な動物たちと過ごす至福の時間なのです。一時は120頭を超える動物たちが集った研究室。そこは知る人ぞ知る、人呼んで “怪物館(やかた)”。
一覧はこちら>> 第13回 怪物館の猫
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
大きな蒼い満月が町を照らす。荒れたアスファルトの上では冷たい風に落ち葉が押されてカサカサと音を立てている。欠けた排水溝の蓋の裏でリーリーと鳴くコオロギの声はもはや弱々しく、1分に1度の断末魔を繰り返しているが、明日には死ぬのだろう。無事に子孫を残せただろうか。
薄暗い路地裏では、タバコの自販機がブンブンと異常なモーター音を響かせて唸っていた。たぶん釣銭泥棒が小銭投入口にオイルを注入して、機械を狂わせたからだ。朝になって気づいたタバコ屋のがっかりした顔が目に浮かぶ。カサカサ、リーリー、ブーンブーン。
そんな深夜の悲しいオーケストラにポックンポックンとリズミカルな音が加わる。底が抜けた私の運動靴の音である。洗い過ぎて薄くなってしまった体操着は、容赦なく晩秋の夜風を通すから防寒機能はもはやなかった。
「寒くなったね、リーラ」
「はい、おとうさま。でもリーラは楽しいです」
大学を出たばかりの私は愛犬と共に、風呂なし便所共同のおんぼろアパートの四畳半で暮らしていた。夜中に犬の散歩に出るのには理由があった。
バブル期真っただ中の世の中でみすぼらしい私たちは異質な存在であり、先日も着飾った男女4人が楽しそうに乗るオープンカーのメルセデスに頭から泥水を浴びせられ、「邪魔だー、わはは!」と大笑いされたばかりだったからだ。
「おとうさま、リーラは自転車の横を走りたいです」
「盗まれてしまったからないんだよ」
倒産したメーカーから格安で部品を分けてもらって自分で組み立てたツギハギだらけの我が愛車は、朝起きたらあとかたもなかった。でも足がある。自分の足は盗まれることはないのだ。
「よし行こう!」
「私も盗まれることはありません。いつまでもいっしょです、おとうさま!」
私たちは風になった。ポックン、ポックン、ポックン。何処までも何処までも二人で走った。私には何もなかったけれど愛犬がいた。可愛い可愛いリーラがいた。犬さえいれば何もいらなかった。リーラがいたから頑張れた。