月日が流れ、愛犬と一緒にポックン、ポックンと走り続けた私は、やがて見習い医から勤務医になり、国から借りたわずかな金で独立した。10坪程度のガレージを借りて小さな病院をつくった。しかし生活の場は依然として同じ部屋だった。
ある晩、いつものようにアパートの玄関に腰をおろし、小さな土間に置きっぱなしの靴を履こうとすると「ゲコッ!」と聞こえてぎょっとした。間違えて大きなヒキガエルを踏んでしまったのだった。
「君は何処から来たの」と聞くと、「へい、あっしはあっちからです」と言う。
「実は結核病院跡地の池でカエル合戦なんです」
「新青梅街道を越える時は気を付けて」
「へい」
ところで靴はどこにいったのかと探すと外にあった。他の部屋の住人が無意識に蹴っ飛ばしてしまったのかと思ったが、それは毎晩続いた。この謎を究明するべく共同便所の扉の陰から見張っていると、大きなオス猫がやってきて堂々と持ち去る姿を目撃した。
その猫はアパートの前の細い私道に靴を置くと草むらに向かって「ニャオ」と鳴き、まもなく小さなメスの子猫が1匹現れてそれにじゃれついたのだった。どうやら狩りの練習をさせている様子だった。
私はゆっくりと外に出て「それで遊んではダメだよ」と言うと、大きな猫は「ボロいからいいかと思ったニャ」と悪びれることなく答えた。
それにしてもオス猫が子猫の面倒を見るなんて珍しい。「君の娘か?」と尋ねたところ「そうだニャ」と言う。
「俺たちは野良猫だニャ、娘が一人前になるまで俺が面倒見るんだニャ」
リーラが言った。
「おとうさま、あの猫の親子はずいぶん前からここにいます」
「ふーん、まあいいか、とにかく靴で遊ぶなよ」
翌日、再び外に出てみると子猫はビール瓶のフタを追いかけまわしていた。傍にはあの大きな猫が座って優しい目つきで見守っている。
「そうそう獲物はそうやって殺すんだニャ」
「アイ、オトータン」
子猫の顔をよく見ると、大きな目がグルグルと渦を巻いていて普通の顔ではなかった。しかも何だか仕草がおかしい。脳に障がいがある可能性があるなと思った。
「おい、君の娘はちょっと助けがいるね」
「そうだニャ、だから俺がついていないとダメなんだニャ」
人間以外の動物にも一人では生きていけない子が生まれることがある。
「母親はどうした?」「死んだニャ」「そうか」
野良猫には野良猫の世界がある、本人たちが幸せならば中途半端な手出しは無用と判断したものの気になった。とにかくここに居ついている以上は毎日様子を見ることができる。
「ニャンタロー」「はい」「飯をここに置くよ」「すいませんニャ」「コニャンタの分はこの皿だよ」「アイニャ」
ただ見守るだけでは薄情なので私は彼らに名前を付け、朝晩の食事を提供することにしたのだった。「おとうさまのやることには全て従います」とリーラも納得してくれた。
ある日出かけようと支度をしていると、足に痛みを感じた。「あ、イタッ!」靴の中にビール瓶のフタが入っていたのだった。「あのヤロー」
外に出るとニャンタローとコニャンタはアパートの敷地に勝手に生えた大きなエゴの木の上にいた。
「娘、頑張って登るのだニャ」「アイー、オトータン」「あ、今忙しいニャ、フタはあげますニャ」
「いらないよ」
それにしてもコニャンタの成長が遅い。いつまで経っても子猫のままだ。ニャンタローは付きっきりでコニャンタの世話をしているがどんどんやつれてきているし、白地に茶色のピカピカだった毛並みも薄汚れている。
一生懸命になって娘に一人で生きる訓練をしているニャンタロー。この親子をこのままにしておいてよいのだろうか。もうすっかり冬だし。どうしよう、さあどうしよう……。はい! ドクターストップかかりましたー。というか、気の毒すぎて見ている私のほうがもう限界だった。
「君たち、もしよければうちの猫にならないか」
「え、いいのかニャ!」
「このアパートの部屋は狭すぎるから、とりあえず私の病院で暮らさないか。貸しガレージを直した小さな病院だが、エアコンはつけっぱなしだし快適だと思うよ」
「ありがとうニャ」
苦労経験のある人は頭が良く理解力と感謝の念を持っていることが多いが、人間以外の動物もこれは当てはまる。
愛犬と一緒に出勤し、犬1匹猫2匹と一緒に仕事をする日々が続いた。休みも取らずに働き続け、もはや靴がポックンと鳴ることはないが、気持ちは変わらない。“額に汗を心に花を”は長年の信念だが、私の場合、ここで言う花とは“動物たち”のことである。
皆さんは“自分一人が幸せ”なのと“自分はそこそこで愛する誰かが幸せ”なのと、どちらを望むだろうか。私は後者である。
ある夜寝ていると布団からリーラが飛び出して私に知らせた。
「おとうさま、窓の外に曲者がいます!」
耳を澄ませると確かに何かが聞こえる。苦しそうな息遣い……。何者かが窓の外にいて、こちらを窺うだけでなく何度も何度もアパートの周りを歩き回っているのだった。「誰だ」
外に出て見るとそこには……大きなオス猫の姿があった。
「あれ! ニャンタロー?」
いや、そっくりだがよく見ると違う。青い目、そして少し毛が長い。
「どうした?」
「俺は野良猫なんだが病気になってしまった。助けてくれませんか?」
「あの親子とよく似ているけど血縁かい?」
「はい、あいつは俺の弟です」
「なんと!」
「あなたのことは知っていましたが、俺にも野良猫の意地がありました。でもこうなってしまうともう……」
私は答えた。
「いいよ!」