〔連載〕京都のいろ 京都では1年を通してさまざまな行事が行われ、街のいたるところで四季折々の風物詩に出合えます。これらの美しい「日本の色」は、京都、ひいては日本の文化に欠かせないものです。京都に生まれ育ち、染織を行う吉岡更紗さんが、“色”を通して京都の四季の暮らしを見つめます。
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太古から人を魅了してきた、燃えるような生命の色彩
文・吉岡更紗秋の日は釣瓶落とし、秋の夜長という言葉のとおり、日が暮れるのが早くなりました。工房の近くには宇治川が流れていて、そこに架かる観月橋から見る夕焼けが美しく、日が暮れる様子はずっと見ていられるほどです。やがて、少しずつ闇に包まれますが、冬至に向けて日が徐々に短くなっていくこの季節には、太陽の光がいかに生活に大事なものであるか、ということを考えさせられます。
写真/吉岡更紗日本の色名は、世界の中でも類を見ないほど多く、その数は300とも400ともいわれています。時代が進むごとに少しずつその色名が増えていきますが、最初についた色の名前は「赤」と「黒」の2系統の色合いであったのではないかといわれています。太古の時代、今と違って電気のない生活を送っていた頃は、太陽が昇っているかいないかで、生活の営みが左右されていました。日が昇ることで夜が明ける、その「明ける」という言葉から「アカ」という言葉が生まれ、日が暮れるの「暮れ」から「クロ」という言葉が生まれたと考えられています。
また、その時代、人は火をおこすということも発見し、狩猟採集した食料を調理することや、
身体を温めるということを可能にしました。この火の色もまた、赤であり、そして人間の体内を流れる血液も赤です。「太陽、火、血」この3つが、人間が生きるために必要な赤であり、また神聖な色であると考えられてきたのだと思われます。
弥生時代に記された『魏志』倭人伝には、邪馬台国について記述があり、「朱丹(しゅたん)を以ってその体に塗る。中国の粉(ふん)を用いるが如し。」「真珠・青玉(せいぎょく)を出だす。その山には丹(に)あり。」と記されています。丹とは朱の原料となる硫化水銀のことで、中国でおしろいを体にぬるように、邪馬台国に暮らす人は朱を体に塗っていて、またその原料は山にあると書かれています。
「朱」。写真/紫紅社植物から色素を汲み出し、染めるという技術がまだ伝わっていなかったこの時代には、朱や弁柄などの顔料から赤い色素を取り出し、塗ることで色を表していました。体に塗ったり、死者の再生を願ってその遺骨に朱を塗ったり、墳墓の内壁に塗るということもされていて、いかに赤が生命を表す色であったか、ということがよくわかります。
やがて仏教と共に中国の政治や文化が日本にも到来し、それは建築様式にも影響してきます。神社の鳥居や建築物は素木のまま建てられ、白が神聖な色とされていましたが、仏教の影響を受けやがて彩色が施されていきました。
写真/坂本正行京都にある伏見稲荷神社には無数の朱塗りが施された鳥居が並んでいます。朱の持つ赤には、魔除けの役割を果たす意味合いがあり、また、朱の材料である水銀は木の防腐剤の役割を果たします。加えて稲作に必要とされる陽光を表しているともいわれています。
赤は人間の生命を司る色であると、夕焼けの美しいこの季節に、改めて振り返ることができました。
吉岡更紗/Sarasa Yoshioka
「染司よしおか」六代目/染織家
アパレルデザイン会社勤務を経て、愛媛県西予市野村町シルク博物館にて染織にまつわる技術を学ぶ。2008年生家である「染司よしおか」に戻り、製作を行っている。
染司よしおかは京都で江戸時代より200年以上続く染屋で、絹、麻、木綿など天然の素材を、紫根、紅花、茜、刈安、団栗など、すべて自然界に存在するもので染めを行なっている。奈良東大寺二月堂修二会、薬師寺花会式、石清水八幡宮石清水祭など、古社寺の行事に関わり、国宝の復元なども手がける。
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更紗さんのお父様であり、染司よしおかの五代目である吉岡幸雄さん。2019年に急逝された吉岡さんの遺作ともいうべき1冊です。豊富に図版を掲載し、色の教養を知り、色の文化を眼で楽しめます。歴史の表舞台で多彩な色を纏った男達の色彩を軸に、源氏物語から戦国武将の衣裳、祇園祭から世界の染色史まで、時代と空間を超え、魅力的な色の歴史、文化を語ります。
協力/紫紅社