最初の出番は台風だった。
暴風とバケツをひっくり返したような豪雨の中を冠水地域を中心に逃げ遅れた動物がいないか見まわる。しかし利口な動物たちはこういう時は意外と抜かりないようで、飼われている犬猫たちも飼い主と一緒に安全な場所に避難していた。結局その日は嵐の中で単車に乗って転倒し、大怪我を負い意識を失った人を救護搬送した。
東京を幾度となく襲った大雪の際も出動した。ところがやはり救助要請は人間の皆さんばかり。チェーン装着時、よりによって傾斜地でジャッキアップしてクルマの下敷きになったお爺さんを救出したり、交差点で身動き取れなくなった4トン車を牽引して交通マヒを解消したり、あがったバッテリーにケーブルをつないだり、挙句の果てに雪の運転に不慣れな人の車庫入れを代行したり、一瞬「俺はJAFか?」と思ってしまった。
しかし感謝はされたようで、毎回沢山のトイレットペーパーを頂いた。たぶん何も用意がないのでその時に手元にあるものをくれたのだろうが、人間は不安になるとトイレットペーパーを買い求める習性があることがわかった。
平成23年3月11日午後2時46分……東日本大震災が発生し、尊い人命と尊い動物たちの命が犠牲になった。私はその時、熱帯魚水槽の前にいた。水面に微振動を確認した私はどうせ小さな地震だろうと思い、勉強に来ていた獣医実習生を「大地震が来るぞ!」と脅かしたのだが、揺れはどんどんひどくなり、舗装路がスライドし、新宿の高層ビル群がユラユラ揺れているのが中野区からでもわかるほどだった。
まもなくして病院に沢山の電話が入るようになった。大半は「動物たちを助けてやって」というものだったが、中には「犠牲者たちが犬に喰われているから何とかしろ」という信じられない依頼まであった。これは聞き捨てならない。犬たちの尊厳を守るために最初に言っておくが、人間の愛を受けた犬たちはどんなに飢えても共食いをせずに餓死を選ぶ。すなわち彼らは友である人間を食らうことも絶対にない。絶対にである。
状況としては陸路は寸断され壊滅状態、沿岸では水害も甚大でこんな時こそ水陸両用水難救助艇の出番であることは間違いなかった。度重なる出動で損壊したメカの修理でやや出遅れたものの、支援物資500キロと義援金を用意し救助活動に向かうことにした。
先ずは日本中の獣医師に手助けを通達した。
「動物たちを助けよう!」
強行軍になると予測できたので、放射能の重度被曝、病気や怪我、食料や排便等については全て自己責任であることを伝えたところ、勇者は一人も現れなかった。
どうせそんな程度だろうと思っていた私は、単独で出発し、線量計の針が振り切る中、アスファルトの瓦礫を乗り越え、道がなくなればその都度浜から浮遊物だらけの海に突入して太平洋を進んだ。
現地で見た光景は……感じた気持ちは……行(おこな)ったことは……軽々しく伝えることはできない。想像を遥かに超えた地獄が待っていたのだ。
ただ、地上の惨状と何事もなかったように青く澄んだ空とのコントラスト、そして被害を受けなかった桜の木々が人々を慰めようとしているかのように蕾を膨らませていたことが、今も脳裏に焼き付いている。
この活動で機体はいつものように大破したが、現在は復活して次なる動物たちのピンチに備えている。
アンフィレンジャー、眠れ、眠れ。お前が眠るこの世の中が平和で一番美しい時。
大災害を目の当たりにした私は、いつしかそう願うようになった。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。科学する心と極上の動物愛を武器に大勢のスタッフと共に日夜奮闘。東京・中野にある病院は、最先端の医療機器を備え、医者から見放された患者たちが全国から訪れる、動物たちの命の最後の砦ともなっている。犬猫のみならず爬虫類や両生類、魚類、鳥類と動物飼育経験も膨大。知る人ぞ知る車やカメラのマニア。
『家庭画報』2021年12月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。