毎日を心豊かに生きるヒント「私の小さな幸せ」 義肢装具士として働く約38年間で作った義肢義足は約2000本。「目の前にいるかたの人生、体力、心に想いを馳せて、血が通っているかのような義足を作ることを目指している」と話す臼井二美男さんの原動力とは。
一覧はこちら>> 第9回 臼井 二美男(義肢装具士)
手にしているのは鈴木 徹選手(走り高跳び)の義足。左端はリオ大会で100メートルと走り幅跳びの代表、今大会では聖火ランナーを務めた大西 瞳選手の義足。臼井 二美男(うすい・ふみお)1955年群馬県生まれ。義肢装具士。鉄道弘済会 義肢装具サポートセンター勤務。進学・就活相談はもちろん、毎週水曜と月に一度、陸上練習会を開催するなど、義足ユーザーの人生に寄り添い続けている。これから特に注力したいのは、義足の子どもの心身のケア。「スポーツもお洒落も存分に楽しんでほしい。義足を履いた人たちと笑顔で共生できる世界を広げることが私の夢です」
義肢装具士の仕事を始めて5年ほど経った1989年。パラリンピックで走る義足の競技者の写真を見たことが、私がスポーツ義足を作り始めたきっかけです。アメリカやドイツでスポーツ向きの部品が販売され始めた頃でした。
がんで脚を切断したり、事故で脚を失った10代の子たちに走ってみたいか聞いてみたら、「考えたこともない」。当時の日本では部品に運動機能がなかったのです。
会社に掛け合い、研究用に部品を購入してもらいました。独学で、ある女の子のスポーツ義足を作り、初めて一緒に廊下を走った日のことは忘れられません。
距離にして数十メートル、わずか数分の出来事でしたが、走り終わった女の子の瞳から涙が溢れ出して。二度と走れないと諦めていたんです。あの日の感動と喜びが私の原動力となっています。
パネルの写真は『切断ヴィーナス』より。撮影・越智貴雄/カンパラプレス義足調整にいらしたイラストレーターの須川まきこさん。「病気で左脚を失った15年前、臼井さんのドキュメンタリーを偶然目にしたのですが、100メートルと走り幅跳びの大西 瞳選手がとても潑剌とされていて。臼井さんの義足を履いたら、この後の人生に光が見えるかもと思い、訪ねていったんです」。大阪から東京への引っ越し、大勢の義足仲間との出会いなど、臼井さんとの巡り合いが人生を大きく変えたという。義足を渡すだけではなく社会生活の後押しもしたいと思うようになり、91年に切断患者の陸上クラブ「スタートラインTokyo」を開設。今も月に一度、都内の公園を皆で走っています。
また、運動が難しい切断状況のかたにファッションがエネルギーを与えてくれるかもしれないと思い、始めたのがファッションショー。電装や金銀で彩られた義足を履いてユーザーが出演するショーを今までに14回開催しています。
2016年のファッションショー後の1枚。義足はすべて臼井さんの作り下ろし(『切断ヴィーナス』より。撮影・越智貴雄/カンパラプレス)私が作った義足を履いたユーザーがスポーツやファッションを通して笑顔になり、前向きになったり、自分の言葉で語ってくれるようになる喜び。世界が広がるお手伝いをすることが私の幸せであり、生きがいなんです。
多様性を認め、他者に寄り添う活動の原点
高校時代は空手部を作り、初代部長に就任。応援団も兼部していました。仲間を応援したい気持ちはあの頃と変わらないですね。
根底では、農業を営んでいた祖父の影響も受けている気がします。祖父母に両親、兄と妹、犬も豚もいる農家の暮らし。多世代で生活し、互いに助け合う“共生”環境によって、想像力やコミュニケーション力が培われ、自分と異なる多様性を認める土台になったのかもしれません。
タイトルが気に入り購入した明治時代の本。今までの活動が認められ、東京2020パラリンピックの開会式に聖火ランナーとして参加させていただきました。
壮絶な過去を生きてこの場に立つアスリートの皆さんの、自信に溢れた笑顔と限界に挑む姿。心の底から感動した大会でした。
臼井さんの書。2024年開催予定のパリパラリンピックでは、応援の機運がさらに高まることを願っています。
撮影/本誌・西山 航 背景スタイリング/阿部美恵 取材・文/小松庸子
『家庭画報』2021年12月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。