東京藝大で教わる西洋美術の見かた 第3回 レオナルド作といわれる「ドーリアの板絵」に潜む髑髏(どくろ)。拡大して回転させなければわからないようなこのイメージはなぜ描かれたのか? 前回に引き続き、イタリアとドイツ──アルプスの南と北で同時に起きていた「美術革命」のお話です。
前回の記事はこちら>> 3.アンギアーリの戦い
佐藤直樹(東京藝術大学准教授)図1 レオナルド(?)《アンギアーリの戦い》「ドーリアの板絵」1503-05年、油彩、板、ウフィツィ美術館、フィレンツェ(旧ホフマン・コレクション、ミュンヘン)髑髏に込められたメッセージ
「ドーリアの板絵」(上・図1)と呼ばれるこの作品は、石膏下地に油彩の板絵です。「ドーリア」という呼び名は、17世紀に本作の持ち主だったアンリ家のドーリアから来ています。1940年に競売に出されるまで、ジェノバ、ナポリと様々なコレクションに収められてきました。
この作品は長いこと、フィレンツェ市庁舎の評議室「五百人広間」にレオナルド・ダ・ヴィンチによって未完成のまま放置された壁画の作者不詳のコピーと考えられてきました。
本作は個人蔵であったため、美術史家の目に触れることはなかったのですが、ようやく1972年になって、様式やイコノグラフィー、また他のコピーとの比較からレオナルド研究の第一人者カルロ・ペドレッティによって、本作はレオナルド自身による壁画制作のためのモデルであったとする意見が出されたのです。
この作品の主題は、1440年にアンギアーリという街で起こったフィレンツェとミラノ両軍の勝敗を決する軍旗争奪場面です。馬に乗って戦う4人の軍人の名前もわかっています。
画面中央で赤い帽子を被り剣を掲げて敗走するミラノ軍のニコロ・ピッチーニ、その左で彼を助けているのが息子のフランチェスコです。その二人と戦うフィレンツェ軍の龍の兜を被る人物がロドヴィーコ・スカランポ、彼の右側でミラノ軍旗を奪おうとその柄を摑んでいるのがオルシーニだと伝えられています。
図2 ロレンツォ・ザッキア《アンギアーリの戦い》(レオナルドによる)1558年、エングレーヴィング「ドーリアの板絵」が本当にレオナルドの手によるものなのか、現在も否定的な意見が多いのですが、1989年、フリードリヒ・ピールは、ロレンツォ・ザッキアによる《アンギアーリの戦い》の模刻版画(上・図2)に、レオナルドの細かいアイデアが理解されていないことを指摘します。
画面下で兵士の目を指で突くフィレンツェの兵法が理解できなかったザッキアは、敗走するミラノ軍の兵士の馬の尻尾で兵士の指を隠していると言うのです。
「ドーリアの板絵」では兵士の目を指で突くフィレンツェの兵法が描かれているが、模刻版画である図2では指が馬の尻尾で隠されている。模刻、模写との細部の相違は「ドーリアの板絵」のオリジナル性を補強している。また、本作では右端の馬が、崖から落ちまいと踏ん張る蹄が画面と平行に描かれているのに対し、ザッキアの版画ではその蹄が地面にしっかりと着いています。その馬の目も、恐怖の眼差しで落ちそうになる崖の下方を見ているのに対し相手の馬を睨んでいるのです。