ウィンナー・ワルツは、父であるヨハン・シュトラウス1世とヨーゼフ・ランナーによって芸術的に高められ、それを更に開花させた息子のヨハン・シュトラウス2世によって爆発的なヒットを飛ばしました。
憂いを帯びた表情のヨハン・シュトラウス2世。1890年。©Familienarchiv Dr.Eduard Strauss一世を風靡したヨハン・シュトラウス2世は、そのヴァイオリンを弾きながら指揮をする伊達男ぶりで女性たちを魅了し、19世紀の半ばには時代の寵児となったのです。
ホーフブルク(ウィーン王宮)ではシュトラウス兄弟が宮廷舞踏会の指揮を担っていました。有名なウィーン会議(1814-15年)が開かれたのはこの少し前ですが、特にこの頃よりワルツは貴族から市民階級にまで広まり盛んに踊られ、社交の上でも欠かせぬ重要なものとなっていきました。
「会議は踊る、されど進まず」という皮肉な名言を、ド・リーニュ侯爵は残しています。
現在でも冬の舞踏会の季節にはさまざまな催しが開かれ、「医師の舞踏会」「法律家の舞踏会」「ジャーナリストの舞踏会」「コーヒー協会の舞踏会」から「お菓子屋さん」や「煙突掃除屋さん」などなどの舞踏会まで行われています。それぞれに趣向を凝らしながら寒い季節を楽しんでいるウィーンの人々です。
下のフォトギャラリーから詳しくご覧いただけます。 撮影/シモン・クッパーシュミート ウィーン取材コーディネート・取材・文/武田倫子 編集協力/三宅 暁(編輯舎)
『家庭画報』2022年1月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。