我々は連続性の中で生きている
五木 歴史といえば、家系を辿って黒柳さんの歴史を見ていくと、僕は「黒柳徹子は一代にして成らず」だなあと改めて感じました。ご両親、父方・母方のおじいさんやおばあさんから受け継いでいるものがある、と。そういえば以前、若い女性編集者と食事に行って焼き魚定食を食べたとき、その若い女性が秋刀魚を一匹、まるで魚の骨の標本になりそうなほど、ものすごくきれいに食べたので、びっくりしてね。僕なんか爆撃の跡みたいになっちゃうのに(笑)、どうしてそんなにきれいに食べられるのかと聞いたら、母から教わりました、その母もまた祖母からうるさくいわれたと。あ、土地とか不動産とか株じゃなくて、こういう「相続」もあるんだなと思いました。
黒柳 『私がいちばん何かを受け継いでいるとしたら、それはきっと父からですね。父はバイオリニストで、今のN響のコンサートマスターを最初に務めた人でした。戦争中に父が満州にバイオリンを弾きに行ったことがありましたが、今思えば清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)が日本のうまいバイオリニストの演奏が聴きたいといったので、呼ばれて行ったみたいです。
五木 お父上は戦後、シベリアに抑留されていらしたんですよね。それで、楽団をつくって抑留された大勢の日本人に音楽を聴かせていたという話を聞きました。
黒柳 そうです。父が労働しているところにソビエト連邦の人がバイオリンを持ってやってきて、お前はバイオリン弾きだそうだが、日本人の捕虜たちを慰める仕事を与えるから、これでやれといわれて、ハバロフスク・沿海地方の捕虜収容所を全部回り、昭和24年頃やっと帰ってきました。父は戦時中「軍歌を弾きに行けば羊羹とかおいしいものがもらえる仕事があるけど、パパは軍歌は弾きたくないから行けなくてごめんね」といっていましたが、そういう慰問のときはみんなが聴きたいといえば流行歌でも軍歌でも何でも弾いたそうです。
「人は親や祖父母から、家や貯金に限らず、ものの食べ方から生き方まで〈相続〉している。受け継がれた歴史の大切さを感じます」(五木さん)
五木 黒柳さん自身も、もちろん目に見えない努力を重ねてきたんだろうけど、やっぱり「他力」もいっぱいありますね。
黒柳 もちろん、あります。父もやっぱり10代から70過ぎまで、朝から晩まで、死ぬ日もバイオリンを弾いていました。バレエの「白鳥の湖」の中にすごく長いバイオリンのソロがあるんですが、当時ほかに弾ける人がいなかったので、父はしょっちゅう呼ばれて弾きに行っていました。私も一緒に行って日比谷公会堂で父の演奏を聴いたりしていたので、最近自分がこれから長い台詞をいわなきゃならない舞台に出ていくときに、ふっとその長いソロ演奏をしている父の姿を思い出すことがあります。若いときはそんなこと思いませんでしたけど、やっぱり尊敬というのかしらね、父の娘でよかったなと思うことがあります。
五木 それもやっぱり「キープ・オン」だ。
黒柳 それと、私、ユニセフの親善大使をしてるでしょ。それでアフリカの干からびた、お医者さんもいないような土地の子どもたちを訪ねて歩いているときに、ふっと思うことがあります。私の父方の祖父は東京の下町で貧しい患者さんをたくさんみているお医者さんだったんですって。そして、母方の祖父もまた、無医村の医者になりたくて、北海道の滝川というところで開業医をしていました。両方の祖父がそういう人だったので、私はアフリカを歩きながら、ああ、そうか、二人の祖父が今生きていたら、きっとこういうことがしたかったんじゃないかと、ときどき思います。五木さんがおっしゃるように、何かがつながって私をそうさせているのかもしれない、と。
『家庭画報』1994年1月号より28年前の家庭画報本誌新年号で「生きる喜び」と題し、ホテルニューオータニ内のフランス料理店「トゥールダルジャン 東京」にて大いに語り合ってくださった黒柳さんと五木さん。今回の対談は、まずお二人で当時の誌面を懐かしそうに眺め、それぞれが読み直されたうえで始まった。後編に続く
撮影/下村一喜〈AGENCE〉 文/大山直美 スタイリング/大野美智子 ヘア/松田コウイチ(MAHALO) メイク/MAHIRO
『家庭画報』2022年1月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。