この作品で現在も論争となっているのは、一体誰がマタイなのかという問題です。
普通は、キリストを見つめ「私ですか」と自分のことを指さす髭の人物をマタイと考えるべきでしょう(下・図5)。
17世紀の美術批評家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリも「この男は金を勘定するのをやめ、胸に手をあてて主のほうを振り向いている」と記述しています。
髭を蓄え指さす人物か、その左側でうつむく若者か……。誰がマタイなのかは現在も論争になっている。しかし、1980年代になると、左側のうつむく若者(上・図6)がマタイであると指摘する美術史家たちが登場します。
髭の男性のさす指が、自分の胸をさしているのではなく、左側で一心不乱にお金を数えている若者をさしているという見方をとったからです。
つまり、金勘定で忙しい若者のマタイがまだイエスに気づいていないことから、これを改宗以前の人物表現と考えるか、あるいは髭を蓄えたマタイがすでにイエスの声を聞いたことで改宗が始まっていると解釈するかの違いになります。
確かに、この若者がマタイであるという説は興味深いものですが、イエスの足元に注目すると、すでにきびすを返していることに気づかされます。また、イエスとの対話が始まっていないのに、この若者は次の瞬間に席を立ってイエスを追いかけていくでしょうか。
1990年になると、この「若者=マタイ説」に反論が出てきます。これまで見過ごされてきた髭の男の「右手」に注意を促したのです(上・図6)
それはテーブルの上で金貨をにぎっていて、机を叩いているようにも見えます。加えて髭の男性がかぶる帽子に金貨がついていることも指摘し、徴税師がうつむいて税の支払いを渋っている若者に対して「税を支払うように要求している」と解釈し、これまでの「髭の男=マタイ説」を補強しました。
確かに、若者のほうは胸の前で財布をしっかりと握りしめ、余計な税金をびた一文支払わないように髭の男の金勘定をじっと見つめているようです。さて、皆さんは、どちらがマタイだと思われますか。
図1 カラヴァッジョ《聖マタイのお召し》1599-1600年、油彩、カンヴァス、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂、ローマ最後に、《聖マタイのお召し》の全体図(上・図1)に戻って、神秘的な光が射し込んでいるのは帽子をかぶる髭の男のほうであったことを確認しておきましょう。金を勘定する若い男は影の中にいて、この絵では主人公ではないのです。
テキストから図像を精査することも重要ですが、それによって作品自体が示すサインを見失ってしまうことに気をつけなければなりません。
『家庭画報』2022年1月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。