ある晩、当時の愛犬リーラ号と家の前で遊んでいた時のことである。遠くからバッタンバッタンと疲労感に満ちた靴音を立てながら、何者かが走り近づくのを私たちは聞いた。リーラ号は警戒して口の中で小さく唸った。
「待て、様子をみよう」
次の瞬間、怯えた表情の中型犬が目の前を走り去り、それに続いて疲れ果てた汗まみれの男が通過した。男は半泣きで「ローラ! ローラ!」と叫んでいる。これは逃げてしまったローラをその飼い主が追跡している図式だった。
しばらくすると再び靴音が聞こえてきて先ほどと同じようにローラが前を通り、それをいっそうヨロヨロになった飼い主が追う。「はあっ、はあっ、ローラ……ロオオオラア~」もう号泣してドロドロだ。
その後も彼らは住宅街のワンブロックをグルグルと何度も周回し、御苦労なことに、この悲しくて悔しくてこっちまで泣きたくなってしまう無限ループは深夜まで延々と続いた。
「ロオオオラア~、ヒック、エック……うわーん!」
夜の静寂にこだまする飼い主の嗚咽……地獄である。
そもそも犬が飼い主から逃げ去るとか呼びが効かないとか、これはもう愛情と躾が不足しているわけで、もしかしたらさらに深い部分、つまり飼い主の犬に対する精神的な立ち位置が間違っている可能性がある。こちらが好きだから相手も自分を好きだろうと一方的に思っていたとしたらそれは勘違いストーカーだし、そもそも自分中心の我が儘な幼児性がむき出しの男など犬は決してリーダーとは認めない。
その点、件の女の子と愛犬の関係は完璧だった。だから彼女のリッキーが飼い主失格男のローラのように逃亡することは100パーセントないと断言できた。しかし不幸なことにその信頼関係を一時的にマヒさせてしまうかもしれない“音響シャイ”という厄介な欠点をリッキーは持っていたのだった。
これは大きな音が異常行動を招く遺伝的な現象で、飼い主が努力しても滅多に治ることはない。こういった犬は屋外で突然の雷鳴などに遭えば、怯えて自制が利かなくなり暴走してしまう。雷が多い夏場に迷い犬が増えるのはこのせいである。音に怯える犬の身体を柔らかい帯を用いて特殊な緊縛を施し落ち着かせる技があるものの、人間よりも聴覚の優れた犬たちは飼い主が気が付く前に雷鳴を感知して狂ってしまうことが多い。
音響シャイに限らず万が一犬とはぐれてしまった場合に、ローラの飼い主のように声をからして犬の名を叫び続けるのは効率が悪い。私が歴代の愛犬たちに教えてきた犬笛のコマンドはシンプルで、短く2回吹いて「コイ」、長く吹けば「トマレ」を意味する。これだけで迷子や交通事故は防げる。私は女の子に犬笛を進呈した。
「これで練習しなさい。きっと役に立つ」
「犬だけに聞こえる笛だなんてすごい」
「他の笛と混同しない周波数に調整したよ」
彼女は来る日も来る日も笛を吹き犬と過ごした。それから数年後の夏の夜、やはりというかとうとうというか、私が予測した通りの事件が起きてしまったのだった。突然の電話に胸騒ぎを感じた私が受話器をとると、大泣きの彼女が叫んだ。
「先生、リッキーがいなくなった!」
「雷か?」
「はい、山梨のキャンプ場で雷鳴に怯えて森に消えちゃった」
「笛を使いなさい!」
しかしその日、リッキーは見つからなかった。それからの彼女は仕事を休み、連日時間の許す限り現地に出向いて迷った愛犬を捜索した。
「リッキーも君を探しているはずだからはぐれた場所を中心に笛を吹きなさい」
「ハイ」
1週間が過ぎた。現地の人たちに聞いても目撃情報は全くなかった。「私がキャンプなんかに連れて行ったからだ」と彼女は自分を責めた。さらに1週間が過ぎてから驚きの連絡がはいった。
「笛を吹いていたら川の向こう岸から汚れて痩せたリッキーが現れました」
「それで?」
「でもキャンプ場の誰かが花火を打ち上げてしまい、その音に驚いてまたいなくなりました……」
「笛だよ、笛を吹いて」
私は励ました。その後も彼女の努力は続いたのだと思う。何故「思う」なのかといえば、それからの彼女の連絡が途絶えてしまったからである。もしや山で遭難したのではと思い、電話をかけたが不通になっていた。当時は携帯電話もメールもない。
それからしばらくしてからカルテの住所のマンションに問い合わせたが、既に別の人が住んでいたのであった。