このようにガラス張りのオペを見ている飼い主は中から私に見られていることを知らないが、私の眼球が術野に向けられている時も心の目は周囲を把握しているのだ。原理的には濁った水中で獲物を察知する電気ウナギの電磁レーダーのようなものかもしれない。
ある日のことである。いつものように手術をビュンビュン進めていたのだが、途中から突然ペースがスローになってしまう現象が発生した。そればかりか麻酔のバイタルモニターの数値まで乱れてしまい“ザ・俺の世界”が崩壊するのを感じた。
ナンダその世界は?と思うかもしれないが、簡単に言えば、これは自分の思い通りになる空間であり、たとえば腫瘍摘出の際にやっと辿り着いた敵のラスボスたる栄養血管と一騎打ちするまさにその時、下っ端である小血管が出血を始めても「オマエは止まっていろ」の一言で止血が可能な奇跡の場だ。
それは私の闘志に満ちた精神が己の命を燃やしてつくり出す異世界なのだ。しかし今、なぜか腕が重くてスピードが出せない……。その時助手たちの声が響く。
「心拍低下、呼吸停止、二酸化炭素上昇、人工呼吸器作動」
「おい何だよ、どうなっちゃったんだ」
焦る私はガラスの外を見てハッ!となった。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。手術を見守る飼い主の中年女性が額を汗の粒まみれにしながら、白目を剝き、口を半開きにして手の平をこちらに向けて谷啓の“ガチョーン”みたいな動作をしていたのである。私は助手に指示した。
「オペルーム内線から看護師長に連絡して、あの人のガチョーンを止めさせろ!」
手術は無事に終わり、さっきのは一体何かと彼女に問うと、「手術の途中で光る何かが降りてきて先生の身体に入っていくのが見えたので、それを応援するために祈ったのよ」などと言う。
「何だか知らないけど、すっごく迷惑でしたが!」
「あらそう、私ね、念力が使えるの。だから宝くじで生活してるのよ。念じれば必ず10万円当たるの。先生のも買っておいたわよ」
「あ、どうもです……」
折角なので私はくじを1枚受け取った。後日当選発表の日、念のため新聞を見ると……本当に10万円当たっていたのだった……。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。小さなビルの一室からスタートした東京・中野の動物病院は今や最新医療機器を揃え、大勢のスタッフを抱える病院に。哺乳類から爬虫類、魚類まで飼育する院長の豊富な知識と、高度な治療技術を頼り、全国から何万件もの患者が訪れてきた。現在も動物たちの守護神として年中無休で診療中。
『家庭画報』2022年3月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。