潤う成熟世代 快楽(けらく)─最終章─ 作家・工藤美代子さんの人気シリーズ「快楽」の最終章がスタートします。年齢を理由に恋愛を諦める時代は終わりつつある今、自由を求めて歩み始めた女性たちを独自の視点を通して取材。その新たな生き方を連載を通じて探ります。
前回の記事はこちら>> 第1回 恋はいつまで(後編)
文/工藤美代子
サヨ子さんは小柄で痩せていて、声も弱々しい。嫋(たお)やかで女性らしいのだ。だから、別れ話を切り出せば、きっと静かに受け入れてくれると先生は思ったのだろう。一方、先生の妻はしっかり者で何があっても動じない。夫を全力で守ろうと決めている。そのための理論武装も鮮やかだ。つまりは肝が据わった女性。
ところが、先生が見逃していたサヨ子さんの特性が一つあった。これは私はすでに気付いていたのだが、彼女は情緒過多の気味がある。限りなく優しい人だけど、自分にも優しい。サヨ子さんの旦那さんが亡くなった時、葬儀に参列した私は、泣き崩れて腕をヒロミさんにようやく支えられて立つ彼女の姿を見てふと思った。
もし自分の夫が突然病死したらどうだろう。悲しいし泣くかもしれないが、とにかく喪主としての務めをきちんと果さなければと考えるのが先だろう。悲嘆にくれるのはその後だ。サヨ子さんは可愛い女性だが、やや幼いまま年を取ったのではないか。
ヒロミさんは話を続ける。
「まったくサヨ子はバカなのよ。私はね、あれは狂言自殺だってわかっていたわ。だってあなたね、精神安定剤を10錠飲んだっていうんじゃない。10錠でなんか人間は死ねないでしょ。それなのに遺書を書いて、わざわざ美容院も行って、買ったばかりのワンピース着て、ベッドに横たわっていたのよ。あれは演出よ」
暮れの忙しい時に迷惑を掛けられたヒロミさんの怒りは止まらない。私ははっと気が付いて森田先生はどうしたのかと聞いた。狂言だろうと本気だろうと、彼が騒動の原因であることは間違いない。
すると、さすがに気が咎めたのか、先生も元旦の朝にサヨ子さんの家に駆け付けたと言う。実はその前にヒロミさんは「驚愕の事実」を知ってしまっていた。この表現は大袈裟かもしれないが、私もそれを聞いた時は驚いた。
服用したのが軽い精神安定剤10錠とわかって、ヒロミさんは救急車を呼ぶのを止めた。寝かせておけば問題ないと判断した。いくらなんでも75歳の妹が恋愛沙汰で自殺未遂を起こしたなんて、みっともなくて世間に知られたくない。自分の家族にも知らせたくなかった。
妹の遺書は簡単なことしか書いてなかった。
「皆さんお世話になりました。私は死にます」とあっただけ。ヒロミさんは必死になってサヨ子さんを揺り起こして、何を飲んだのか?と問い詰めると、朦朧とした声で薬の名前を言った。それなら死なないと安心したのだが、1年くらいたった頃に「あれね、実は6錠飲んだだけだったの」とサヨ子さんが白状したそうだ。呆れ果てて言葉も出なかったと、ヒロミさんはまた怒って私に電話して来たことがあった。