毎日を心豊かに生きるヒント「私の小さな幸せ」 日本の訪問看護師の草分け、秋山正子さんが開設した地域密着型「暮らしの保健室」や、がん患者とご家族の相談支援センター「マギーズ東京」。他者を支える活動の原点にはお父さま、お姉さまの看取りがありました。
一覧はこちら>> 第12回 秋山 正子 (訪問看護師・保健師)
秋山さんの声は穏やかで深く、心地いい。「がん経験者、ご家族など訪れたすべてのかたが、マギーズ東京の柔らかい空間でくつろいでくださいますように」。秋山正子(あきやま・まさこ)1950年秋田市生まれ。訪問看護師、保健師。聖路加看護大学卒業。新宿区で25年以上訪問看護を続け「市ヶ谷のマザー・テレサ」と呼ばれる。2011年暮らしの保健室、16年マギーズ東京設立。19年赤十字国際委員会より第47回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。「京都・永観堂の見返り阿弥陀に亡き姉の面影を見て、初めて泣けた日。苦しみ、哀しみの時間が生きていく力に変換された瞬間でした」
私が看護師、訪問看護の道へと進んだのは父の死、そして兄弟姉妹の中でも年が近くいちばん仲よしだった姉を看取った経験がきっかけでした。
1年半ほど自宅で母の看護を受けたのち、父が亡くなったのは私が高校1年生のとき。ポリープの切除手術を受けたと聞かされていましたが、実は胃がんでした。
父が布おむつを使っていたことさえ、私たちに気づかせないほど、父の尊厳を最後まで保ちながら看護に当たった母。偉大さを尊敬すると同時に「自分は何もできなかった」という思いから看護師の道を決意し、聖路加看護大学(当時)へ進学したのです。
豊洲にある「マギーズ東京」はがんの影響を受けたかた誰もが立ち寄れて自分を取り戻すことを目的とした、英国発祥日本初のキャンサーケアリングセンター。秋山さんと乳がん経験者の鈴木美穂さんが日本共同代表。チャリティで運営され相談料不要(maggiestokyo.org)。病院勤務などを経て京都で看護教育に携わっていたときに結婚し、娘と息子に恵まれました。そんなある日、姉が突然の病に。原発不明の肝臓がんで、わかったときにはすでに余命1か月の末期でした。治る見込みはなく、必要なのは緩和医療という現実。姉にとっての幸せは中学2年と小学5年の息子たち、夫とともに過ごせる日々です。
東京・市ヶ谷で診療所を開く佐藤 智(あきら)先生が在宅ケアに取り組まれていると聞き、姉のことをご相談したところ、往診と訪問看護を引き受けてくださいました。いろいろな大変なこともありましたが、家族の愛情に包まれた姉は日常に小さな喜びや希望を見出し、子どもたちや義兄、実母も姉の変化を徐々に受け止めていくプロセスを踏めたのです。
1990年4月に41歳で亡くなるまでの4か月半、かけがえのない時間を過ごすことができました。
看取ったかたの人生から学び、語り伝えていきたい
著作の数々。地域密着型「暮らしの保健室」は新宿区に開設した繫がりの場所。姉を亡くしてから半年。上司のすすめで半日休みをとり、京都・永観堂へ初めて足を運んだ日のこと。紅葉にはまだ早い10月の平日だったので、参拝客はまばらでした。いちばん奥まで進み、見返り阿弥陀様と目が合った瞬間の驚きといったら。姉の面影にそっくりだったのです。
看護師、臨床心理士などが相談に対応。一枚板のテーブルは活動に賛同する木場の材木屋さんからの寄付。姉が阿弥陀様の姿を借りて、私なりに頑張ったことを慰労しに来てくれた。姉を亡くしてから初めて涙することができました。それから私は背中を押されるように、訪問看護の道を歩き出したのです。大好きな姉を亡くした寂しさ、悲しみが幸せに転換するきっかけとなった体験でした。
フローレンス・ナイチンゲール記章を19年受章。生誕100周年の1920年から隔年で受章者が発表されている。看取りのご縁で結ばれた多くのかたたち。お一人お一人の人生最終章からの学びが私の幸せであり、エネルギーにもなります。そのかけがえのない人生を語り継いでいくことが、最期に立ち会った者の責任だと思っています。
直筆の書。 撮影/本誌・西山 航 取材・文/小松庸子
『家庭画報』2022年4月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。