ある晩のことである。飛行場に用事のあった私は、道中にある彼の病院に立ち寄ってトイレを借りた。その時彼は必死の形相で猫の避妊手術をしていた。邪魔しないように早々に立ち去ったが、帰り道にまだ電気がついていたので再び覗いたところ、まだ手術の真っ最中だった。
「頑張るねえ…それは何頭目?」と問うと、1頭目だと言う。
「あれから3時間もお腹をかき回していたのか?」と驚いて聞くと、
「子宮が見つからないんです」と返した。
「そこに見えてるじゃん」
「え……これですか?」
「そうだよ、発情してるから大きくなってんだよ」
「知らなかった……」
「ヘッポコか?」
「全摘出は初めてなんです」
「いつもはどうしてた?」
「卵巣の血管を結紮(けっさつ)するだけで閉じていました」
「卵巣を壊死(えし)させるわけ? 苦痛に悶絶して死ぬかもしれないよ」と私。
それに対して彼は「飼い主はあちこちの病院に電話をかけて安いところを選ぶので、うちの設定している料金では手抜きをしないとやっていけません……」などと言う。なんということだろう。気持ちはわかるが、動物たちには何の罪もないのだ。
「ところで君のお師匠は誰?」と聞くと、「いません。大学を出てから代診に行かずに参考書で学びました……」とのことだった。
「じゃあHPにあったナントカ国の王室付属病院で勤務したとかいうのもウソだろ!」
「……」
私はあきれ果てた。そうこうするうちに急患がやって来た。部屋の隅からお手並み拝見といこう。
その犬はくしゃみを連発していた。遠くから見た感じでは、犬歯の慢性の歯槽膿漏が悪化して、強い鼻腔炎を招いていると私は見た。
しかし彼は診察も診断もせずに「今日はどうしました?」などと問診的なことを言いながら、早々と注射器の中に薬液を充塡しはじめた……。
これはつまりどんな病気が来ても1種類の抗生物質だけを使うということだ。
彼が犬に注射を打つ時、私は目を疑った、何とヘッポコは“自分の左手の甲”に針を刺してしまったのだ。
「あ! やったな」と思った瞬間、彼はそのまま注射器の内筒を押して、「ウッ……」と小さく呻きながら全部自分の手に注入してしまった。飼い主は何も知らずに帰ったが、私は今何を見せられてしまったのか、わけがわからなくなり、こみ上げてくる笑いをこらえるのに必死だった。
「何でそうなるかな……」
「失敗を見られたら客が減ります」
「自分の手に注射するほうが客が減るだろ」
やはりこの男は何か変である。
その日、休憩室でヤンキートリマーが小声で言った。
「野村先生聞いてください。この病院はトリミングの時に犬の皮膚をつねって赤くしないと叱られるんです」
「何でそんなことするのさ」と私。
「皮膚の異常を発見したことにして、治療に持ち込むんです」
「嫌なことを聞いちゃったなあ」
「ここを辞めたいので、私を先生のところで雇ってくれませんか?」
「うちは病院一本で勝負してるから、トリミングはやっていないんだよ」
「えー、じゃあ儲からないじゃないですか。先生は見かけによらずストイックですね」
「余計なお世話だね」
「うちの先生なんか無欲を装っているけど、不必要なサプリメントをガンガン売りつけて稼ぎまくってます」
「ばかばかしいね」
「しかもネットで自分の病院を褒めまくってます」
「実にくだらないね」
「ケチだから注射針や縫合糸は洗って再利用してます」
「かんべんしてほしいなあ……」と、そこにヘッポコ先生が何やら呟きながらやって来た。
「ブツブツ……犬を見たら1万円……猫を見たら5000円と思え……それが獣医……」
「はあっ? ここにいると頭がおかしくなりそうだ。もう帰る!」
読者の皆さんはここまで読んで、「そんな先生いるわけないよ」と信じないかもしれないが、“現実は小説より奇なり”真実である。そしてこんな奴に限って、巷では良心的な料金の、優しい先生と思われていたりする不思議。
インチキによる見せかけの安さは、病院側にとっては大きな利益となるが、その皺寄せはもの言えぬ動物たちの身体にもたらされる。結局、飼い主は無自覚のまま大損をすることになるのだ。