菅沼安嬉子(すがわら・あきこ)さん1943年東京生まれ。幼稚舎から大学まで慶應義塾育ち。医学部を卒業後、夫が開業した菅沼三田診療所に勤務する傍ら、慶應義塾女子高等学校で15年間、慶應義塾大学看護医療学部で7年間、講師を務める。2020年慶應連合三田会会長に就任。医学を学び直す契機になった幸せな15年間
慶應義塾大学の卒業生は非常に結束力が強いことで知られ、卒業年や地域、職種などによって、「三田会」と呼ばれる多様な同窓会組織を結成しており、これらを取りまとめる「慶應連合三田会」は38万人以上もの会員からなる大組織。
2年前、その連合三田会会長に女性で初めて就任したのが、菅沼安嬉子さんです。
菅沼さんは医師として診療を行う傍ら、1985年から2000年まで、母校の慶應義塾女子高等学校で保健の講師を務めました。
教え子たちの多くが魅了されたという名授業を一冊にまとめた『私が教えた慶應女子高の保健授業』が、このほど世界文化社から刊行されました。
菅沼さんは、長年、ご主人が田町駅前に開いたクリニックで診療を行ってきました。息子さんが院長を引き継いだ現在も、副院長として診療所を支えています。
「田町駅周辺はビジネス街なので患者さんの約7割がビジネスマンで、忙しいから毎日ラーメンを食べるなど、食事や生活が乱れているかたが多いのです。小さい頃から濃い味に慣れた人に、血圧が高いから急に塩分を控えてと言っても、味気ない食事に生きる張り合いをなくしかねません。私はもともと動脈硬化や食事療法が専門なので、本当は離乳食から、親が子どもに薄味の食習慣を身につけさせるべきだとつねづね思っていました」
毎週「今日は何の話をするの?」と、みんなが楽しみにしてくれました。今もノートを大事に取ってあるという卒業生に会うこともあります。
そんな折、来院し、患者さんに熱心に病気の説明や食事指導を行う菅沼さんの様子を見聞きしていた慶應女子高の先生から、思わぬ提案が。現在の保健の講師が退職する予定なので、代わりに授業で教えてもらえないかというのです。
「女子高生がいろいろな病気の基礎知識を持っていれば、結婚して子どもを育て、家族の健康や親の介護などを担うようになっても慌てずにすみますから、これはぜひやりたいと思って、二つ返事で引き受けたんです。教え始めてみると、女子高生ってゴム鞠のように元気はつらつで(笑)。けっこう興味を持って授業を聞いてくれ、私があやふやな知識で教えていると、『先生、わかんない!』の大合唱が始まるので、いつも真剣勝負でした。自分にとってもさまざまなことをしっかり学び直す機会となり、幸せな時間でしたね」
著書の中にはこんなエピソードも出てきます。卒業から数年後、教え子の一人から手紙が届き、父が自宅で倒れ、とっさに授業を思い出して胸骨圧迫を行いながら、母に人工呼吸法を教え、救急車到着までの10分間、二人でがんばったところ、父は一命を取りとめ、すっかり元どおり元気になった、とのこと。
「生半可な胸骨圧迫だと後遺症が残りやすいんですが、『肋骨が折れてもいいから全体重をかけなさい』という先生の言葉を思い出して思い切りやったのがよかったと書いてありました」
菅沼さんは今でも連合三田会の各委員会などで教え子に会う機会があり、「まだ先生の授業のノートを取ってあります」という卒業生が少なくないそうで、教師冥利に尽きると語ります。