毎日を心豊かに生きるヒント「私の小さな幸せ」 『人生を変える言葉の処方箋』『がん哲学外来入門』などの著者、樋野興夫さんの本職は病理・腫瘍学の専門家。多岐にわたる活動で多忙な日々ながら、信条は「暇そうな顔で淡々と過ごす」。その心持ちを伺いました。
一覧はこちら>> 第14回 樋野 興夫 (病理学者)
「人と話すのが苦手で病理学を選んだのに、今や新渡戸稲造や内村鑑三の読書会を開くんだから、人生はまさに“もしかするとこのときのため?”だね」(がん患者さんたちと歩くこともある、自然豊かな東久留米市落合川にて)樋野興夫(ひの・おきお)1954年島根県生まれ。病理学者。順天堂大学名誉教授。新渡戸稲造記念センター長。一般社団法人 がん哲学外来理事長。恵泉女学園理事長。2000年開催の新渡戸稲造『武士道』100周年シンポジウム、08年“がん哲学外来”立ち上げをきっかけに一躍“注目の人”に。「悩みのない人生なんてありません。でも明日のことまで心配しても仕方ない。1日1時間と決めて、とことん悩めばよいのです」
僕は自分の人生、幸せか不幸せかなんて、考えたことがありません。順境、逆境もない。人生は所有物ではないと思っているんです。与えられたもの、プレゼントされたものであり、後ろから背中を押されている感覚なんですね。
僕が生まれ育った島根県出雲大社町の鵜峠(うど)は当時人口100人ほど。小さな浜辺の村で、村には小学校も中学校もないし、同級生の友達もいない。「友達ができない。見つけたい!」とみんなよくいうけれど、そもそも近くにいないんです(笑)。
でも、僕にはそれがよかったんだね。いつも一人で丘に登ったり、海に行ったり、読書をしたり。自分に真剣に深刻に向き合う時間が山ほどあった。200ページの本なんて1週間で読めるから、1年に50冊は読んでいましたよ。
読み直すたびに発見がある新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳『武士道』、『武士道』ワイド版、内村鑑三著・鈴木範久訳『代表的日本人』。「後から思えば、第一志望の大学医学部受験の失敗も、役割と使命に導かれる出来事でした」。東大総長だった南原 繁の教え子で牧師でもあった予備校の先生の影響で南原の著書、そこに書かれていた内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠雄といった本物の人物、教育と出会う。時代を超えた邂逅だった。そして、小学校5年時から日記をつけていました。日記を書くことで自然、物事への丁寧な観察力が生まれるんです。森を見て、木の皮まで見えるようになる。マクロとミクロ、それが病理学への道にも、今、週に4回書いているブログにも繫がっているのでしょうね。
僕が医者になると決めたのは3歳のとき。鵜峠は無医村だったので、母は体が弱かった僕を背負い、隣村の診療所までよく駆け込んでいました。母の背で揺られながら、「大きくなったら医者になる!」と決心したのです。
僕がシティボーイだったら医学の道には進んでいなかったかもしれないし、読書が与えてくれた先人たちの言葉、学びを著書や講演会で皆さんにお伝えすることもなかったかもしれない。一見、不条理に見えることが、「もしかするとこのときのため?」なのです。
1冊目の著書。2003年刊。一喜一憂せず淡々と過ごす。これがコロナ時代の哲学
悩みは誰にでもあります。悩みのない人生なんてない。人は順調なときには何も与えられないものです。私も毎日悩みます。でも悩むのは1日1時間と決め、一人でとことん100パーセント悩む。そうすれば悩むことに疲れて、外に出たくなってくるはずです。
自然豊かな東久留米市落合川。鴨もひと休み。理事長を務めている学園の式典でもお話しするのですが、このコロナ禍、自分でコントロールできることとできないことを識別する能力が大切。一喜一憂しても仕方ないんです。こんな状況下では右にも左にも寄らず淡々と過ごす心構えでいる。不条理な世界ではありますが、これがコロナ時代の哲学なんですね。
がん哲学外来のイベントで。ツリーの中はジーン夫人。後になって「もしかするとこのときのためであったのかも」とわかるときが、いつの日か来るのかもしれません。
撮影/鍋島徳恭 取材・文/小松庸子
『家庭画報』2022年6月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。