まずいことになったとサヤカさんは思った。寝耳に水の事件だ。とっさにサヤカさんは一計を案じた。
秘書君の眼を見据えて彼女は問い質した。あなたの主張は正しいかもしれない。しかし雇用された時の正式な契約書はあるのか?セクハラを受けたという証拠はあるのか?と。
すると、秘書君が契約書はない、いわゆる口約束だったと答えてから、しかし、セクハラの証拠はあると返して来た。さんざん股間を触られて、「やめて下さい」「そんなところを触らないで下さい」と自分が抗議する声と内藤さんの甲高い笑い声を録音しておいたのだという。今はスマホでも録音が可能だ。
ここでサヤカさんは考えた。どう見ても悪いのは内藤さんだ。許される行為ではない。だが、秘書君の希望が何かと言えば、まずは未払いの給料をもらうことだろう。
1年分なら360万円になる。それが払えないのは、今の内藤さんが金銭的にかなり追い詰められているからに違いない。サヤカさんは賭けに出た。自分が必ず説得するから、お支払いするべきお金を半額の180万円にしてもらえないか。それなら、明後日にはあなたの口座に必ず振り込ませる。
今度の件は、もしも弁護士に頼んでも費用が発生するでしょうし、裁判にでもなったら、長期間続いて、あなたも世間の好奇の目に晒される可能性がある。それならば、いっそのこと180万円で手を打ってくれないかと説得したのだ。初めは不服そうな顔をしていた秘書君だったが、サヤカさんが静かに切々と懇願したら、最後には承諾してくれた。
もしも内藤さんがどうしても支払いを拒否したら、サヤカさんは自分が尻拭いをするつもりだったという。スキャンダルになるのをなんとしても消し止めたかった。さすがに内藤さんもそこまで迷惑を掛けられないと悟ったのだろう。借金の返済はした。
だからといって、浪費癖は抜けなかったようだ。既婚者のバカボン・パパと二人で出歩いていたらしい。ところが昨年のコロナ禍の最中に内藤さんが音信不通になってしまった。携帯も固定も電話は通じない。郵便の手紙もメールも戻って来る。コロナで孤独死する老人のニュースを見て、心配になったサヤカさんたちは、奥沢の内藤さんの家を訪ねた。
そこで見たのは信じられない光景だった。あの豪邸が影も形もなくなっていたのである。近所の人に聞いてみると、もう半年以上も前に引っ越して、その後は更地になったのだと教えてくれた。
「どうも借金がかさんで、家を売ったみたい。その先はわからないのだけれど、ちゃんとした生活をしていたら、あの人のことだから連絡して来るに違いないわ。実はね、私の友達が、つい最近、内藤さんによく似たタクシーの女性運転手さんを青山通りで見たんですって。あの人ね、車の運転だけは昔から上手だったの」
サヤカさんは浮かない表情で目を閉じて、がっくりと首を垂れた。
私はなぜか、まったく関係のない変なことに考えがいった。財力や権力があれば、人間はたいがいの欲望を叶えられる。そのために、今までに著名な実業家や芸能人、学者などが、セクハラ事件を起こして、晩節を汚した。
まさか、それを高齢女性が犯すとは想像すらしなかった。でも本当は、すでにそんな例は無数にあるのかもしれない。あってもおかしくないと気づいたら、私も思わず目を瞑(つむ)って俯(うつむ)いてしまったのだった。
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。
イラスト/大嶋さち子
『家庭画報』2022年6月号掲載。
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