潤う成熟世代 快楽(けらく)─最終章─ 作家・工藤美代子さんの人気シリーズ「快楽」の最終章。年齢を理由に恋愛を諦める時代は終わりつつある今、自由を求めて歩み始めた女性たちを独自の視点を通して取材。その新たな生き方を連載を通じて探ります。
前回の記事はこちら>> 第4回 ホテルのルームキー(後編)
文/工藤美代子
実はもう一人別の男性と彼女が食事をした時も、一緒に来てくれと言われて行った。この時のことは、ひどく不快だったので思い出したくない。職業は書けないが、その男性も、そこそこ世間に知られていた人である。篠田氏と違って風采も上がらず、お洒落でもない。森さんがなんでこんな人と付き合うのかわからなかった。
ものすごくお酒を飲む人で、食事中からどんどん酔っぱらっていた。そして店を出てタクシーを拾うために路上を歩き始めた途端に、その人がとんでもない言葉を大きな声で叫び始めた。放送禁止用語なので、ここでは書けない。でも、彼の横を歩いていた森さんに向かって発しているのは明らかだった。今ならセクハラ、モラハラで訴えられてもおかしくない言動である。森さんは何も反応せずに歩き続けた。いや、こういう場合、余計なことを言わない方が得策と心得ていたのだろう。
あまりに卑猥な言葉なので、他の通行人もびっくりした顔でこちらを見る。私は、大声で叫ぶ男の後を歩きながら、もし彼が森さんに何か失礼なことをしたら、後ろからハンドバッグで頭を思い切りぶん殴ってやろうと、しっかり自分のお腹のところに四角いバッグを抱えていた。
間もなくタクシーが来たので、森さんと私はさっと飛び乗った。その後、何を話したのかは忘れた。しかし、彼女は怒ってもいなかったし、怯えてもいなかった。平然と構えていたのである。もしかして、これも彼女にとっては何かのゲームだったのかもしれない。
森さんが体調不良で入院したというニュースが入ったのは1年後くらいだった。この辺の記憶は曖昧だ。その後の時間の流れは、激しい濁流に放り込まれたようだった。電話も掛けられないし、見舞いに行くのもおこがましいと遠慮した。私はそれほど親しい友人ではなかったからだ。やがて、編集者の人たちから絶望的な情報が入って来た。病魔に侵された彼女の余命は限られているという。