カルチャー&ホビー

工藤美代子さん綴る【快楽(けらく)】第4回「ホテルのルームキー(後編)」

2022.07.15

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1993年の夏に、彼女はとうとう旅立ってしまった。四谷の教会で執り行われた葬儀の光景は、はっきりと瞼に焼き付いている。

詰めかけた弔問客の多さは、森さんの友人や読者の多さを物語っていた。そして可愛い3人の娘さんと旦那さんが、悲しみに暮れながら寄り添い合って立っている姿こそ、まぎれもなく家族を象徴していた。この家族がいて彼女のストーリーが完結したのだ。

その晩のことだった。夜の11時過ぎに家の電話が鳴った。こんな時間に誰だろうと訝(いぶか)ったら、男性の声が聞こえて「篠田です」と名乗った。ああ、さんざんデートの邪魔をした私に、篠田氏が何の用事だろうと思った。私の名刺は渡してあったので、それを見て掛けたという。


「悔しいねえ」と絞り出すような声で篠田氏は言った。「なんで、こんなに早くあの人は亡くなってしまったんだろう。働き過ぎだと思うんだよ」篠田氏は憤っていた。

「そうですね。やらなくてもいいようなお仕事まで引き受けて、トラブルがあっても版元さんは何も助けてくれなくて、森さんはすごいストレスを抱えておられましたからね。一人で闘っていたから」

私はある仕事が彼女を悩ませていたことを知っていたので、篠田氏も当然知っているのだろうと思った。

「違うよ。あの亭主だよ。彼女は亭主のために働いて、働いて、身体を酷使した。あんな男のために、どうして死ななきゃいけなかったんだ。別れれば良かったのに」

そうか、篠田氏は森さんと結婚したかったのかと、はっと気づいた。そんなに真剣な気持ちだとは思わなかった。彼女がこの世から去った哀しみを、誰かの責任にして気を紛らわせたかったのだろう。でも森さんが、いくら旦那さんと不仲だったとしても、本気で離婚する気はなかったと思う。その上、年下の美男に心をときめかせていたのを私は知っている。だから、篠田氏が演じる役柄は、彼女の人生にはなかったはずだ。

その後も篠田氏からの電話は2年ほど続いた。しょっちゅうではないけれど、3カ月に1回くらい掛かって来た。「寂しいよね」「あんな男のために」と必ず言ってはため息をついた。篠田氏と森さんの関係は実際のところどのようなものだったんだろうと、私は何度か考え込んだ。いつもデートの度に私が同席していたとは限らない。でも男女の仲にまでは進展していなかったろうと今でも思っている。
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