それにしても、この猫の顔のデカさといったら世界記録ものである。“玉あり”なので、男性ホルモンの作用で雄の第二次性徴が見事すぎるくらいに発現しているのだ。顔の左右の皮膚が盛り上がって幅広の“肉の盾”が発達し、そのために目と鼻と口が顔の中央に寄っているように見える。白い顔に黒い模様のその頭部はまるで巨大なおむすびのようでもあり、とにかく立派な猫なのだった。
顔に鼻息がかかるくらいの至近距離に陣取り、無遠慮な仏頂面で半開きの猫目を逸らすことなく寿司を食べる私を観察するコイツは、一体何を考えているのか全くわからない。そうこうするうちに福助が少し口を開いた時、私は確かに人の言葉を聞いたのである。
「うにゃいか、うにゃいのか」
「アレッ? 福助が『うまいか、うまいのか』と聞いてきましたが?」
と驚いて言うと、
「ああ、そいつ最近喋るんですよ」と大将。
「ふーん、そうですか」
と福助の顔をまじまじと見る私。
「まぐるう……」
「オッ? 大将、今度は『マグロ』と言いましたよ」
「言いますよ」
「へー、それなら……」
私は面白くなって、マグロを箸でつまんで福助の口元に差し出した。
「いるあにゃあ…」
「アレレッ?『いらない』って言ってる!」
「それは初めて聞いたなあ」
こんなことをやっていると、少し酔いが醒めたのか、戸を吹っ飛ばした例の酔っ払いオヤジが隣でげらげら笑い始めた。
「俺にはただの猫の鳴き声にしか聞こえないんだよなあ……あんたらアタマ大丈夫?」
そう言いながら彼が手を伸ばした時、福助はそれを避けるように立ち上がり、大きな図体で床に飛び降りて外に出ていった。その時オヤジに向かってはっきりと「ばかにゃろ」と言ったのを私は聞き逃さなかった。酔っ払いは「何だとー」と怒っていたが、「おっ、猫が喋るのを認めたわけかい」と言うと、おとなしくなったのだった。
遊んでいるうちに夜も更けてきた。病院に帰らなければならない。
「大将、今夜は楽しい食事でした、お茶ください」
私は寿司屋で“あがり”という言葉は使わない、それは符丁であり、本来客が使う言葉ではないからだ。
「ホイ、センセお茶どうぞ」
「俺も帰ろうかな」
酔っ払いが言うと大将は紙を差し出した。
「ホイ、“ばかにゃろ”には木戸の請求書をどうぞ」
その後大将はコロナの影響で店をたたみ、昭和寿司跡地にはいかにも利回りの良さそうなつまらないアパートが建っている。大らかな時代の良い店がまた一つなくなったが、大将と福助は青森の奥さんの実家で「まぐるう、うにゃい」なんて言いながら今日も楽しく暮らしているのだという。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。東京・中野にある病院は動物たちの最後の砦。個人病院とは思えないハイテク医療機器を操り、重篤な動物たちの命を救う。手術の腕は冴え渡り、患者は全国から訪れる。自身も熱烈な動物マニアとして知られ、ドーベルマンのビクターを筆頭に、爬虫類、魚類、鳥類、昆虫まで幅広く飼育。
『家庭画報』2022年8月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。