「もういっぱいありますよ。女性にいきなりキスされたり、迫られたりしたことって」
「へ? 女性に迫られる?」
「ええ、一緒に歩いていて信号で立ち止まった時とか、車に乗っていて、駐車しようとハンドルを切っていたら、突然キスされて、車は道路で斜めになったままずっと20分くらいキスしてから、大急ぎでラブホに向かったり、たいがいいつも女性からです」
「なんで? だって普通は男の人からってものでしょう」
「いや、今は断然、女性からが多いです。急にホテルの部屋に連れ込まれたり、飛行機の中でトイレに引っ張り込まれたこともありました。珍しいことじゃなくて今は女性のほうから積極的に出るのが普通じゃないかな」
「はあ、女性からね。そんなことされて嫌な相手もいるでしょ?」
「ボクの場合は嫌な人はいなかったですね」
それから、ラルフ君は素敵な女性はTバックのショーツをはいているとか、身長182センチくらいの女性が好きだとか、いろいろ話してくれたが、私は頭が混乱してごちゃごちゃになっていた。
ラルフ君の瞳をあらためて見てはっとした。なんとも不思議な色彩だ。青と緑が混ざって黒みを帯びた深い色。中心からビーッとレーザー光線が発射されているようだ。
あっ、ひょっとしてラルフ君には、マサ子さんのフェロモンが遺伝しているのではないか。
この目を見ていると女性は彼に触れたくなるのだろうか。
彼は少年時代から三奈江さんの友人たちに可愛がられていた。
「ラルフ君は中学生の時からモテて、ママ友たちの間でも評判良かったのよね」
私が30年くらい昔を思い出して呟くと、すぐにラルフ君の返事が戻ってきた。
「誰にも内緒だけど、ボクは小学校から私立に行ったでしょ。中学生になったら、小学生の子供を車で学校に送ってくるお母さんたちがたくさんいて、中には誘ってくる女の人がけっこういましたね」
「誘ってくるって?」
「ええ、向こうから声を掛けてくるんです」
私はしげしげとラルフ君の顔を見た。何でもワガママを聞いてくれそうな優しい気配が漂う眼差しだ。なるほど、この優しさがフェロモンを放っているのだろう。
この時に、なぜ自分がまったく男にモテない生涯を送ったのかが、わかった気がした。私の両親がフェロモンとはまったく無縁の人間だったからに違いない。生まれてくる時にフェロモンを貰いそこねた。
それにしてもラルフ君に隔世遺伝したマサ子さんのフェロモンってどれだけ強烈だったのだろう。
いや、わからない。私が知らないうちに日本はもう女性から男性にアプローチするのが特別ではない社会になっているのか。
世間とはなんて奥深くて、激動するものなのだろう。ラルフ君と別れてから、紀ノ国屋に夕食の材料を買いに走りながら、まあわが70余年の人生は、どうにも薄っぺらくて意外性に乏しいものだったと思い知った心地だった。
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。