長谷川父子が語る認知症との向き合い方・寄り添い方 第9回 認知症の進行に伴い、事実とは違う認識のもと不可解な行動をとることがあります。これは認知症の中核症状の一つである「記憶障害」によるものです。記憶障害のメカニズムを知ることは、介護をうまく乗り切るヒントになります。
前回の記事はこちら>> 事実を認識できず、不可解な行動をとる
長谷川 洋(はせがわ・ひろし)さん長谷川診療所院長。1970年東京都生まれ。聖マリアンナ医科大学東横病院精神科主任医長を経て、2006年に長谷川診療所を開院。地域に生きる精神科医として小児から高齢者まで、さまざまな精神疾患の治療とケアに従事。聖マリアンナ医科大学非常勤講師、川崎市精神科医会理事、神奈川県精神神経科診療所協会副会長などを務める。長谷川和夫さんの長男。写真提供/長谷川 洋さん長谷川 和夫(はせがわ・かずお)さん認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長。1929年愛知県生まれ。1974年、認知症診断の指標となる「長谷川式認知症スケール」を開発。「パーソン・センタード・ケア」の普及に力を注ぎ、認知症ケアの第一人者としても知られる。「痴呆」から「認知症」への名称変更の際も尽力。2017年に自らの認知症を公表し、社会的反響を呼ぶ。2021年11月13日逝去。享年92。認知症の人は現在ではなく、過去の記憶の中で生きている
認知症の人の中には、退職しているのに朝になると会社に出かけようとする、娘や息子のことを妻や夫だと勘違いする、旧姓で呼ばないと返事をしないなど不可解な行動をとる人がよくいます。また、年齢を尋ねると実年齢とはかなりかけ離れた若い年齢を平然と答え、周りの人が面食らうこともあります。
このような認知症の人の不可解な行動や反応は「記憶の逆行性喪失」と呼ばれる現象によるものです。これは記憶障害の一種で、蓄積されてきた記憶が現在から過去に遡って失われていくために現在を起点に数年分から数十年分の記憶をすっかり忘れるといったことが起こります。
つまり、過去の記憶が残っている時点が「その人にとっての現在」ということになります。そして、認知症の進行に伴い、残っている記憶も失われていくので、若い頃に体験した世界にどんどん引き戻されていきます。認知症の人は、いわば過去の記憶の中で生きているようなもので、周りの人に不可解な行動や対応として映る事象も本人にとっては理にかなったことなのです。
記憶障害は認知症の中核症状の一つで、認知症になった人には例外なく、この障害がみられます。時間的な側面や特徴から記憶障害は5種類に分類されます(下表参照)。前述した「記憶の逆行性喪失」のほかにも、「新しいことが覚えられない」、「経験そのものを丸ごと忘れる」といったことが起こってきます。
記憶障害の種類と特徴
『よくわかる高齢者の認知症とうつ病』(長谷川和夫・洋 著、中央法規)などを参考に作成人間の記憶能力は、新しいことを覚える「記銘力」、覚えたことを保存する「把持」、覚えたことを再生する「想起」の3つの工程から成り立っています。認知症になると記銘力が特に衰え、新しいことが覚えられなくなるので、同じことを何十回と繰り返すようになります。
現在から過去に遡って記憶を失う「記憶の逆行性喪失」により不可解な行動をとることがあります。事実を正しく説明してもすぐに忘れてしまうので話を合わせて対応するのも介護をうまく乗り切る方法の一つです。──洋さん
認知症になった父は、自分が何度も同じことを尋ねるようになると「これはいったかもしれないけど」と前置きをしてから話すようになりました。そして、このような状態に置かれることを「確かさがなくなる」と表現し、そのことが認知症の人を不安にさせることも指摘しています。
また、エピソード記憶が障害されると、自分が経験したことを丸ごと忘れるようになります。そのため、認知症の人の場合は、過去から現在、未来へと続く延長線上にあった体験が不連続な点の体験に変わるため、不安を招きやすくなります。一方で、こうした記憶障害への自覚は乏しく、本心は計りかねるものの、覚えていないことがあっても案外平気で、その場をうまく取り繕うことも多いものです。