Vol.4 和の伝統素材から先鋭のモードスタイルを切り拓く
「ヨーロッパ各国を巡って買い付けてきた大量の古着、その洗濯に四苦八苦しているタイミングで私を訪ねてきたのがデザイナーのヤッコ(早田泰子)でした。『化繊ではなくてコットンでドレスを作りたい』という言葉に共感して、私は彼女とチームを組むことをすぐに決めたのです。年齢的には私より一回り若く、性格も全然違うのですが、通じ合うものがあるというのかしら。出会ったその日もすぐに古着の洗濯を面白がって手伝ってくれたし、仕事を共にするようになってからも、うちの小さな子どもたちの面倒までみてくれるような朗らかな人で、家族ぐるみのつきあいになりました」
会津木綿は“日本のジーンズ”!? 実験的な服も「着たい!」と思わせる仕上がりに
どんなブランドにしていくかを2人で話し始めると、やりたいことやアイディアがどんどん膨らんでいく。でも、ひとまず現実的に大きな課題は“生地の調達”だ。独自に素材開発を目指したい。だったら、ファッション業界の既存のレールに乗った生地の流れにとらわれず、自分たちの手で調達できるコットンで始めてみよう!と、道が決まった。
「リカルドは東京育ちですが、両親の実家は会津若松の塗り物問屋で、会津にはずっと一族がいるんですね。私も以前、会津若松を訪ねた時に『会津木綿』という織物があること、それは昔“野良着”に用いられていた丈夫な生地なんだ、と聞いたことがあって。吸湿性と保温性に富むコットンだから“和製ジーンズ”として扱ってみたい、きっと何かできる、と閃いたわけです。ヤッコとリカルドに伝えると、それはイイね!と盛り上がりました」
会津木綿の機屋にて。選りすぐった綿糸を糊付けし堅牢性を高めて織り上げていく。すぐに万里子は行動を起こす。親戚を通して会津木綿の機屋さんを紹介してもらい、サンプルの反物を仕入れた。昔は“10反を持ってお嫁入り”と言われていたそうだが、十分な量を買い付けることができた。1反とは幅約36cmで長さ約11m。洋裁の生地と違って幅が狭いのが難点で、型紙を生地幅に収めるために知恵を絞る必要があった。まずはシャツ、ベスト、パンツにアイテムを絞って制作を試みる。万里子とヤッコの2人で型紙の線を引き、ミシンもかけ続けた。
2人の手にかかると、反物の縞がマニッシュなペンシルストライプのように見えてくるという不思議。どのブランドにもまだない、オリジナルの世界が拓けた。
さらに、シナノキの樹皮繊維で織る新潟の科布(しなふ)、四国の蚊帳生地といった素材も取り入れてアイテムを増やしていく。1枚ずつでも魅力的だが、組み合わせてエッジの効いたスタイリングができることが強みとなり、「原宿ミシェール」のウインドーディスプレーを任された。これは西武百貨店の和田部長へプレゼンして拓けた道だ。
会津木綿のストライプをシックに生かして。メンズモデルが着こなしているものも、実はユニセックス仕立て。また、当時、新宿紀伊国屋の1階にあった「ブティックエマ」では、アーティスト達のフリーマーケット、今でいうポップアップのようなスタイルが可能だったのだが、これも試みて評判は上々。実はまだブランド名すら決まっていない段階にして、かなりドラマチックな展開である。
ブランド名を登録して華やかに始動
雑誌にも発表されることになり、その前に正式名を決めなくては問い合わせ先も載せられなくてもったいないよね、ということで、「ナウ」の常連メンバー達と作戦会議。ちょうど「パシフィック通商」という商社との企画・デザイン・生産管理の仕事も決まって、識別化の意味でもブランド名の決定はなおのこと急を要した。
会津木綿の地縞に四国の蚊帳生地を組み合わせたルックが話題を呼んだ。誌面のレイアウトもお洒落。「デカマリとリカルドとヤッコ、3人のニックネームを組み合わせたらいいんじゃない?というアイディアが出て、どの順番が言いやすいかを、また仲間たち皆でワイワイと真剣に検討しました。最終的には、企業のIDデザインも手がけていたトク(石山 篤)の『ヤッコマリカルド、これが一番マーケットウケする名前だ!』というひと声が決め手になりましたね。リズム感もよく、YaccoMaricardという字面も素敵だね、と皆も納得。さっそくこの名前で商標登録をして、1977年、晴れて私たちのブランドの正式な誕生に至りました」
ビジネスの舟を後押しする風
右後ろがリカルド(渡邊 勇)、左下がデカマリ(渡邊万里子)、そして中央下がヤッコ(早田泰子)。ブランド立ち上げ初期の仲間とともに。ブランドの仕事を手伝ってくれる仲間も少しずつ増え始めた。何もかもがトントン拍子、ハタからはそう見えるかもしれない。けれども、何もしないで雑誌掲載の話やウインドーディスプレーの幸運がトコトコと向こうからやって来たワケではないはずだ。ビジネスの広がりにはいくつか伏線があるものだ。
リカルドはカメラマンの仕事に加えて、青木慎二の依頼で「ブルーチップ」のシンクタンクの立ち上げメンバーにも参加。『東京ファッションレポート』という冊子の編集長も兼任していた。これはブルーチップスタンプ加盟店のブティックオーナーに向けた業界レポートで、都内の人気20店舗の成功の秘訣をディスプレーから製品のディテールに至るまで詳細に記したもの。
「東京ファッションレポート」は、店舗のディスプレー、人気の型番などが詳細に図解されていた。全国100店ほどに定期的に届けられ、大いに重宝がられていた。編集長としての仕事でビジネスの成功ポイントを体得できるだけでなく、人脈も広がった。
リカルドはまた、「女性も自分らしく仕事をすべきだし、目的を持つことが大事」と、常に万里子に刺激を与えていた。人とのコミュニケーションが大事だということも。
「実はファッションレポートの仕事には、興味を抱けずにいたのです。」と万里子は振り返る。アートを学んだ身でもあり、ヒットして量産される服という世界観は物足りないなぁ、と心の中で思っていたのだ。けれど、川久保怜がチームを率いて、コムデギャルソンを誕生させたことには強い刺激を受けたという。デザイン云々ではなく、チームで活躍していくという意識、「大切なのは人材だ」と学びを得た。
当時、「ヤッコマリカルド」の製品を作りつつ、万里子は同時進行でほかにいくつもの仕事をこなしていた。商社から依頼されたものを作り、ライセンスビジネスのサンプル制作までこなす。日本各地の生産基地とのやりとりでビジネスのノウハウを急速に身につけていった。
そんな中、大きな試練に見舞われる。取引先のパシフィック通商が倒産してしまったのだ。計画倒産だった。大きな被害を受けた。が、ここで縮こまらないのがデカマリである。
なんと自分の会社を立ち上げる選択に打って出た! この続きは、連載の次回で。