『家庭画報』は20年以上にわたり、森 英恵さんのライフスタイルや仕事にかける情熱を取り上げてきた。私生活では美しいと感じるものを身の周りに置き、「嬉しいときも悲しいときも、それを仲間のように思ってきた」と話されていたのが印象深い。『俵屋の不思議』(世界文化社刊)の著者である作家の村松友視氏とは、パリの職人と京都の職人の共通点と相違点、奥行きの深さについて対談。オートクチュールの話になったときは表情を輝かせ、言葉を弾ませておられた。(撮影/武蔵俊介)主婦からトップデザイナーへ
誰にも負けない努力の日々
ガラスは壊れやすく儚い。でも磨くとキラキラして語りかけてくるような感じがする。ボリュームがあっても軽やか。そんなところにたまらなく惹かれると語っていた。(撮影/齋藤幹朗)森 英恵さんは佇まいや言葉遣い、しぐさ、表情、端正な装い......そのすべてがエレガントだった。
森さんは仕事をする女性が着るジャケットのことを「女のセビロ」と称していた。森さんが出会った、世界的なフィールドで活躍する女性たちは、爽やかですっきりしたスタイルの持ち主が多かった。そのボディをしなやかに包む機能的な「女のセビロ」を提供しようとの考えだったのだが、森さん自身が晩年まで一貫して、すっきりした身体の持ち主だった。
大学卒業と同時に結婚。主婦業をこなすだけではなく、仕事をして生きがいを感じたいと、新婚3か月目にしてドレスメーカー女学院に入学。妊娠してからも通い続け、卒業後にご主人の協力を得て、新宿東口のビルの二階にアトリエ兼店舗「ひよしや」を開店した。
敗戦の名残のある東京で珍しかった洋装店に来店したのは日本人だけではなかった。外国人の将校の家族もいた。彼女たちは海外から送られてきた生地や型紙を携えてオーダーに来た。
森さんは辞書を引きながら英語の説明書を読み、立体裁断の型紙を組み立て、西洋人のお客様に接し、感覚と技術を高めたのだった。ファッションショーも開いた。
1961年、ピエール・カルダンの専属モデルとして渡仏する松本弘子さんと共にパリ旅行をした森さんは、一か月の滞在の間、思いついてオペラ通りにある語学学校の門を叩き、毎日2時間フランス語を勉強。終わった後はカフェで復習をし、課題をこなす勤勉さだった。
ニューヨーク・コレクションで初めて発表した日本の絹織物によるセットアップは『アメリカンヴォーグ』に取り上げられるほど注目を集めた。(2001年1月号「世界に生きる──森 英恵」より)森さんが愛した和柄の代表が「扇面」。日本の花鳥風月を題材にしながらも、蝶をどこかにあしらうのが特徴的だった。1970年に森さんがデザインしたミニワンピースの日本航空客室乗務員の「5代目制服」。ドラマで実際に着用され、ファッション、ドラマともに人気を博した。6代目も手がけた。写真/日本航空(近日公開の後編に続きます)
森 英恵 年譜
●1926年
1月8日島根県に生まれる。
●1943年
東京府立第十一高等女学校卒業。東京女子大学入学。
●1948年
大学卒業の翌年に結婚。ドレスメーカー女学院に通学し洋裁を習得。
●1951年
新宿にスタジオ「ひよしや」を開店。
映画衣装の依頼を受ける。以後50年代だけで数百本の映画に携わる。
●1954年
銀座にも「ひよしや」を開店。
●1961年
初めてのパリ旅行。本場のファッションに触れる。
●1963年
「ヴィヴィド」設立。プレタポルテに進出。
●1965年
ニューヨークで初の海外コレクションを発表。
●1967年
日本航空客室乗務員の制服をデザイン。
●1975年
グレース公妃の招聘によりモナコでショーを開催。
その帰路のパリでもショーを開催。
●1977年
パリ・オートクチュール組合に加入、東洋人初の正式会員に認定される。第1回オートクチュールコレクションを発表。
●1978年
東京・表参道にハナエモリビルをオープン。
●1988年
紫綬褒章受章。
「美空ひばり不死鳥コンサート」の衣装を担当。
●1992年
バルセロナオリンピック日本選手団のユニフォームをデザイン。
●1993年
皇太子殿下ご成婚に際し、雅子妃のローブデコルテを担当。
●1996年
文化勲章受章。
●2002年
レジオンドヌール勲章オフィシエ受章。
●2020年
水戸芸術館で「森 英恵 世界にはばたく蝶」展を開催。
●2022年
8月11日老衰により他界。享年96。
撮影/小野祐次 取材・文/田島由利子
『家庭画報』2022年11月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。