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【森 英恵さん追悼企画】主婦からトップデザイナーへ。誰にも負けない努力の日々その後時を経て、森さんがパリ・オートクチュール組合のアジア人で唯一の正会員になったことはあまりにも有名だ。
パリでアトリエを構えサロンを開設。フランス人の職人を雇い、モードの世界で最高峰の尊敬される立場になったのだが、その前提にはパリのスタッフが認めたデザイン力、布を扱う技術の確かさ、統率力が備わっていたからに他ならない。
「過去を振り返るのは現役を終わるとき。だから栄光も挫折も振り返らない。頭にあるのは明日のこと」と語っていた。最後まで情熱を持ち続けた生涯現役デザイナーだった。(2001年1月号「世界に生きる──森 英恵」より)そのために、ときにはカシミアの高価な布をモデルのボディに巻きつけて、手品師のように立体裁断して見せたことも。完成度の高さへの追求心が人一倍強く、それが職人たちの心を動かしたのだった。
創作面で海外の人々を魅了したのは「和の感覚」だが、単に着物の反物を仕立てるのではなく、洋服の幅に合ったオリジナルの色と図案による「雅な世界」で話題を振りまいた。
フランス刺繡の老舗工房ルサージュ。シャネルやディオールの刺繡を手がけるルサージュの協力により森さんはオートクチュールを完成させるのが常だった。右・オリジナルプリントの上にビーズ刺繡を施したシルクシフォンのドレスは、ショーで多くの拍手を集めた。中・専属イラストレーターが描いた森さんの意図を汲んだデザイン画。左・繊細なレースで透ける効果を演出。大人の魅力を引き出すデザインも好評だった。そのために日本では絞りや織りの産地を訪ね歩いて職人の協力を得、パリでは伝統的な刺繡工房ルサージュに発注した和柄や蝶のビーズ刺繡が輝きを添え、「東と西の文化の融合」による森さんならではの美意識がインターナショナルな価値を生み出したのだった。
語学が堪能で現地アトリエのスタッフとは通訳を介さず会話。ダイレクトにコミュニケーションを取れたことも成功の要因のひとつだった。
日本のみならず、アメリカ、フランスで成功し、海外から招聘される機会の多かった森さん。ガラスの蝶のように繊細で移ろいやすく優雅な美しきファッションを追いかけ、邁進し続けた生涯だった。
メゾンのスタッフとの会話や取材は、通訳を介さず対応されることが多く、オープンで率直な日本女性と評された森さん。しなやかでバイタリティ溢れる姿勢が誰からも好感を持たれ、リスペクトされたのだった。