ところが西脇は違った。慶応大学を卒業後に外務省などに勤務した後、大正11年にイギリスに留学している。彼の郷里の小千谷市には、西脇の英語にまつわる伝説が数多く伝えられていた。中学時代のニックネームは「英語屋」であり、すでに授業のノートは英語で取っていた。大学を卒業する際の卒論は、他の学生が英文で提出するのに対し、それでは簡単過ぎると思いラテン語で書いた。
大学からの資金援助を得て、渡欧した西脇は、しばらくの間ロンドンで生活している。ここでイギリスの若手詩人、評論家、ジャーナリストなどと親交を結んだ。
そして、西脇の人生に「大回転」が訪れる。ロンドンのピカデリーサーカスにあるカフェロワイヤルで、マージョリー・ビッドルという若い女性画家と出逢ったのだ。彼らはたちまち恋におちた。後に西脇は「ロンドンに半年以上ぶらついたということは私にとって非常な危機であり、また大回転をやった」と書いている。
この頃から西脇は英文の詩を次々と発表し始めた。それはT・S・エリオットと一緒に文芸誌に掲載されたりした。英語を母語としない日本人としては、あり得ないことだった。西脇の詩は高く評価され、英文での詩集も刊行された。
戦後になって、西脇が書いた英語の詩を読んだエズラ・パウンドが、ひどく感銘を受けてノーベル賞候補に推したのは有名な話である。つまり西脇は初めから英語の作品でイギリスの文壇に登場した。翻訳者の力を借りずにノーベル賞候補となった唯一の存在だった。
では、西脇の詩はどのようなものだったのだろう。
おれの骸骨の鳥籠の中で
おれの心の駒鳥が
第七と第八の肋骨の間で首を縊つた大正15年に発表された「恋歌」という詩からの引用だ。自分の肋骨を鳥籠に例える詩人の感性は、現代でもかなりシュールであろう。
さて、恋に陥った西脇の行動は素早かった。オックスフォード大学へ入学する時には、どうやら彼女を連れて行ったようだ。そして翌年結婚した。西脇が30歳でマージョリーが24歳だった。新婚旅行は大正13年7月である。チチェスターという海辺の町に一軒家を借りて2週間を過ごした。これは西脇の実家が新潟でも有数の資産家だったから出来たことだ。そして大正14年11月に、西脇は新婚のマージョリーを伴って日本へ帰国した。