二人が8年にわたる結婚生活にピリオドを打ったのは昭和7年だった。マージョリーは単身で日本を去った。この間に何があったのかは、あまり詳しくわかっていない。ただ、マージョリーには日本人の男性と結婚したのだから、自分も日本語を学び、慶応大学の教授である夫を支えようという発想はなかった。彼女は画家だという強い自負があった。残された絵には非凡な才能が感じられ、精神的には完全に自立した女性だったと思われる。
次第に軍国主義化が進む日本で、マージョリーは居心地の悪さを感じていたのではないか。西脇もまた昭和8年から22年まで、ほとんど詩作を中止している。
かつてカナダに住んで、英語で悪戦苦闘していた私は、西脇順三郎の詩に惹かれ、彼の伝記を書き始めた。西脇は、自分の詩は自伝のようなものだと語っている。ところが、どんな作品にも直截(ちょくせつ)にマージョリーを描写した言葉など一片もないのだ。彼女と特に親交のあった人の証言も残っていない。マージョリーの出自や人柄は謎に包まれていた。
ところがある日、晩年のマージョリーと親しかった女性がロンドンの近郊にまだ健在だとわかった。私はすぐにその女性に電話をしてアポを取り、ロンドンへと向かった。
それが、平成2年の初め頃のことではなかったかと思う。ドクター・ウイリアムスという女性の年齢を尋ねたら78歳だという。マージョリーより12歳年下だった。30分ほど雑談をしている間に、堅い表情だった彼女の口調は次第にほぐれてきた。
「そう、マージョリーは日本から直接イギリスには帰らなかったのよ。インドに行ったの。通訳でもしていたのかしら。そこへベニーがヨーロッパから来たらしい。ベニーの国籍はイギリスだけど、彼はユダヤ人でドイツ語も話したわ。とにかくインドで巡り会って二人は結婚したの。たしか真珠湾のすぐ後だったと思う」
日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したのは昭和16年12月8日だ。日本とイギリスの中間に位置するようなインドで、彼女は9年間を過ごしたが、太平洋戦争が勃発した後、イギリス人男性と結婚する。
二人はドクター・ウイリアムスが住む村に昭和30年代には移り住んでいたようだ。夫のベニーはチェロを弾く音楽家だったが「それで稼いでいたとは思えなかった」そうだ。
しかし、彼らが住んでいた家が、その当時はまだ村に残っていた。立派な佇まいの邸宅だった。生活に困っていた様子はない。
(後編に続く)
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。
イラスト/大嶋さち子
『家庭画報』2022年11月号掲載。
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