スーパー獣医の動物エッセイ「アニマルQ」 指折りの動物マニアである野村先生は、大の植物好きでもあります。とはいえガーデニングとは無縁。思いを寄せるのは一株を愛でる和蘭の世界です。なぜアニマルQで植物? そこには動物と同様に生きとし生けるものへの好奇心と憧れがあるのです。
一覧はこちら>> 第25回 風の蘭姫
文/野村潤一郎〈野村獣医科Vセンター院長〉
時は江戸時代、ここは東の都より西に数百里離れた深山である。辺りは初夏のむせ返るような緑と土の匂いに満ち、永きにわたって齢を重ねた樹々がうっそうとそびえている。道すらなく、滅多に人の立ち入らないこの地に夜の帳が下りて漆黒の闇が辺りを包むと、日中は身を潜めていた獣や虫たちが一斉に動き始めるが、夜霧が木々の葉をしっとりと濡らす頃には、真っ白で大きな満月が山々の峰から昇り、夜風に押された薄雲の合間からその姿の全てを現して、森全体を煌煌と照らすのだった。美しい夜のはじまりである。
森の中で最も高くそびえる粗樫(あらかし)の梢には本体とは明らかに異なる尖った葉が繁茂していた。長く白い根を這わせて老木に活着するそれは悠久の時間をかけて地面の土と決別した着生蘭、風蘭(フウラン)の群生である。
彼らは常緑の高木を住処とし、木漏れ日と樹表をつたわる雨水、そしてそれに含まれるわずかな養分を糧として長い時間をかけて育つ。それは数ある蘭の中でも特別な存在であり、肥沃だが俗に満ちた地面を捨て去った潔く風雅な一族ともいえる。
よく見ると、月光を受けてひときわ光り輝く株がある。緑一色が基本の彼らの中にあって遺伝子の突然なる変異により、その剣のような葉が派手な斑入りとなった個体だ。高所に鎮座して山の清い風を受ける姿は、まさに深山幽谷の姫と呼ぶに相応しい気品を醸し出していた。蘭姫は言った。
「心地良い夜じゃ、今宵、妾(わらわ)は一花咲かせようぞ」
そう言うと、前年の秋からゆっくりと下拵えしていた花芽の先端をゆるめ、可憐な白い花の封印を解いた。辺り一面に高貴で甘い芳香が立ち込めて森の生きとし生ける者たちが沸き立ち始めた。
「姫が御開帳しあそばされたぞ」
「見事なものよ喃(のう)」
先ず最初に現れたのは、甲虫の中でも飛翔能力が抜きん出て高いカナブンだった。黄金色の鎧を輝かせながら甲虫らしからぬ身のこなしで木の幹にふわりと着地すると、鼻息荒くにじり寄った。
「姫、我こそは輝き丸にて御座候」
しかし蘭姫はカナブンの顔を見てひどく立腹したのだった。
「してそなたはかような口で何をすると申すのじゃ。ええい汚らわしや、近寄れば妾は己の舌を嚙むぞよ、去(い)ね」
フウランの花は特殊な形状をしていて花弁の下に突出した長い距(きょ)と呼ばれる管の中に蜜が存在し、ほとんどの昆虫の口器には適合せず、しかもその華奢な花茎は虫に乗られると折れてしまうほど細い。
「妾はふしだらな女とは違うのじゃ、誰でもよいというわけではない」
この後も様々な強者たちが挑んでは玉砕した。姫は気高く気難しいのだった。
やがて夜も更けた頃、丸い月を背景に真一文字にやってくる何かが見えた。その影は無音俊速で姫に近づくと、羽を高速回転させ空中にぴたりと静止して物静かに言った。
「姫、拙者はスズメガの雀丸と申す者でございます」
蘭姫は喜悦の声をあげた。
「そなたを待っていたのじゃ、くるしゅうないぞよ」
雀丸は姫に乗ることも揺さぶることもせず、相変わらず空中に定位したまま3寸にも及ぶ異様に長い口吻を伸ばして言った。
「いざ、仕(つかまつ)る」
風蘭の受粉は高木に到達できる飛行能力と、長い口吻の二つを備えたスズメガに依存する。この特化した植物は彼らを呼ぶために夜間になると昼間の7倍もの芳香を放つという。