その後も“富貴蘭趣味”は廃れることなく続き、品種ごとに名前が付けられた。たとえば、文久年間に伊勢の松坂城の石垣に生えているのを左官屋が見つけたものは“御城覆輪(ごじょうふくりん)”、逆光で葉を見ると星のように点々とした透かしが入っているものは“金光星(きんこうせい)”、簾越しの影の美を感じさせる高貴な雰囲気のものは“御簾影(みすかげ)”などで、こういった味わい深い名前があるのも富貴蘭の魅力のひとつである。
またその数は未登録種を含めると200を超え、明治6年には相撲のそれに倣った“番付表”がつくられ、73年前からは日本富貴蘭会より毎年発行されて愛好家たちによる各品種の人気の参考となっている。
ここで注意したいのは、特別な風蘭である富貴蘭の品種は人の手による人工的な改良種ではなく、その全てが自然界における突然変異であることだ。しかも種子から育てるのは至難の業であり、したがって繁殖はもっぱら“株分け”に頼るしかない。
1年でたった2枚の葉しか育たないほどに生長が遅いこの蘭は、当然のことながら簡単に株が出るわけでもなく増やすことが難しく、じれったいことこの上ない。特に“芸”の特殊な希少品種に関しては遺伝的に虚弱なこともあり、それが顕著だ。
したがって品種によっては大変に高価なこともあり、明治10年に銘品を金1000円也で買ったお大尽もいたというから驚きである。この時代の1円は現在の2万円に相当するのだ。現代においても道を究めてしまった趣味人の垂涎の対象となっている“羆(ひぐま)”などは高級外車よりもはるかに高額である。
私は1998年からこの趣味を始めて現在に至っているが、今のところ番付表による“別格貴稀品”には魅力を感じず、その時のフィーリングに合った個体を買いつけては育てている。最近は“神風(じんぷう)”を手に入れた。
これは“御簾影”から変異して派手な萌黄覆輪に転じたものと言われているが、詳細は不明である。登録は昭和6年だという。人気がないので比較的安価だが、探してもなかなか出てこないので珍品でもあり大変に気に入っている。値段が高ければ良いというものでもないのだ。
富貴蘭は特に安いものなら数百円ほどで手に入るが、株分けしたての小さな個体は避け、できることなら3万円以上奮発してポピュラーな品種の成株を買うことをお勧めしたい。100年生きるこの蘭は一生の付き合いになるし、とにかく生長が遅いので小さな株を買って育ててもなかなか花を咲かせない。基本的に葉を見る植物なのだが、やはり毎年初夏には花と芳香を楽しみたいので、時間を買うと思えば安いものだと思う。
明治維新の動乱や昭和初期の戦争の時代をくぐり抜けて200年以上の歴史を持つ富貴蘭は、西洋の派手な花や珍奇植物のブームに押され今やほとんど見向きもされないが、渋い魅力にあふれたその伝統は一部の愛好家たちによってしぶとく維持されている。
「生きるか死ぬかの長期入院を終えて我が家に戻ると、作棚の植木は全部枯れてしまっています。でも富貴蘭たちだけは生き延びていて、いつも笑顔で私を出迎えてくれるのです」
古典園芸店で知り合った老紳士の話が心に残った。
野村潤一郎(のむら・じゅんいちろう)
野村獣医科Vセンター院長。東京・中野にある病院で、ハイテク医療機器と大勢のスタッフに囲まれ、動物たちの守護神として手術の腕を振るう。自身も指折りの動物マニアで、ドーベルマンのビクターを筆頭に、爬虫類、魚類、鳥類、昆虫まで命あるものへの興味は尽きない。それらの飼育経験は治療に反映されている。
『家庭画報』2022年12月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。