ホテルの中に後楽園飯店があるものだと思い込んで、ロビーに立っているボーイさんと思おぼしき青年に尋ねてみた。
「すみません。後楽園飯店は何階にありますか?」
「えっと、あれはうちじゃないですよ。隣のビルなんです」
親切に青年は右側を指差した。
「じゃあ、1回外へ出なければいけないんですね?」
もう入口のドアに向かって歩き出そうとすると、青年が慌てて首を横に振った。
「大丈夫です。この建物の中で繫がっていますから、ロビーから行けますよ。道順はですね」
と言いかけて急に声が止まった。
「道順が難しいんですか?」
「いえ、その、途中に階段があるんです。2階まではエスカレーターで上がれるんですが、その先は階段しかなくって」と答える。
「あっ、そうですか。階段は長くって急なんですね」
彼が口ごもったのはそのためだろうと私は思った。
「いえ、そんなに急じゃないし、たくさん上がるわけではないんですが、でも、杖なんかお持ちじゃないですよね? うーん、どうしようかなあ、大丈夫かなあ」
あんまり何度も私を見るので、こちらも心細くなって、尋ねた。
「いったい何段くらいあるんですか、その階段って」
「それが一度上がって、また下がるものですから」
「けっこう大変ですね。それで合計で何段くらいあるんですか?」
青年はまだ私を見ながら躊躇していた。
「うーんと、そうだなあ上りも下りも10段くらいはありますかねえ」
たった10段かと私は拍子抜けした。そんなの楽勝で上がったり下がったりできる。
「行けますよー」と軽やかに返事してエレベーターに向かったら、背中から青年の張りのある声が響いた。
「お客様、くれぐれもお気をつけて、ご無理なさらずに、よくお足元をご覧になっていらして下さい」
へっとため息が出た。いったい私を何歳だと思っているのだろう。腰だって別に曲がっていない。あっそうか、顔がまた80代に見られたに違いない。これで3回目だ。
(後編に続く)
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。
イラスト/大嶋さち子
『家庭画報』2022年12月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。