美輪明宏歌手・俳優・演出家。長崎県に生まれ、小学生の頃から声楽を習い16歳でプロの歌手としてデビュー。1957年「メケ・メケ」、1966年「ヨイトマケの唄」が大ヒット。俳優・作家としても活躍し、著書の最新作は『天声美語』(講談社)。2018年秋には東京都より多方面での功績をたたえられ、平成30年度「名誉都民」の称号を贈られた。五木寛之作家。福岡県に生まれ、生後まもなく外地にわたり、1947年に北朝鮮より引き揚げる。1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞後、数々の賞を受賞。英文版『TARIKI』は2001年度、ダ・ヴィンチ「BOOK OF THE YEAR」(スピリチュアル部門)に選ばれた。最新刊に『五木寛之セレクション』東京書籍刊、中国語版『大河の一滴』など「精神の栄養になるのは文化。質のよい文化に接していなければ心も病気になります。」(美輪さん)
五木 お久しぶりですね。
美輪 本当にお久しぶりですね。今日は、お会いできて本当に嬉しいです。いい意味で青天の霹靂。先生はあらゆる知識の宝庫でいらっしゃるので、いろいろ教えていただけるのを楽しみにしております。
五木 それにしても、相変わらず素敵ですね。昔お会いした頃から随分経ちますけれど。
美輪 ありがとうございます。
五木 美輪さんに初めてお会いしたのは、「銀巴里(銀座にあったシャンソン喫茶)」でしたね。僕が九州から上京したのは昭和27年。その翌年、昭和28年、大学2年生のときに初めて「銀巴里」へ行ったんです。
美輪 あら、同じ。私の上京も昭和27年でした。「銀巴里」は、どなたが教えてくださったの?
五木 先輩ですね。当時、東京育ちの人は、あの辺をよく知っていましたから。
美輪 へえ、銀座7丁目を? 嬉しい。
五木 あの辺りは、今でいうライブハウスがたくさんあって、連日にぎわっていたんですよ。みゆき通りには「テネシー」、銀座7丁目には「銀巴里」、そして「銀座ACB」があって、西銀座のミュージックサロンがあって。あちこちハシゴしてましたね。仕事を始めてからは、今の「カフェーパウリスタ」の辺りに事務所があったこともあって、自分の縄張りのように通っていました。でも皮切りは、「銀巴里」。ビルの地下へ降りていくと、別世界があるんだよね。パリの世紀末ではないけれどど、そういう世界が。
美輪 あまりにもしょっちゅういらっしゃるから、私が話しかけた言葉を覚えていらっしゃる? 五木さんがハンサムだから、歌手の女の子たちが騒いでいたんですね。それで、当時人気があった女の子の名前を出して、「彼女がお目当て?」って五木さんに尋ねたことがあったんです。そうしたら、首を横にお振りになって、その後、私の方へ顎をしゃくったの。それは私のファンという意味ですか?と聞いたら、うんって頷かれて。
五木 あの頃は本当に、ぞっとするぐらいの美少年でしたからね。妖怪変化じゃないかと思われるぐらい(笑)。幻想の世界に迷い込んだんじゃないかと。この世のものとは思えない妖艶さでした。
美輪 私に恋をした男性はたくさんいらっしゃいました。洋画家の木下孝則さんが、私の肖像画をお描きになって、賞もお取りになられたんですけれども、そのきっかけが面白いの。私に恋をした男性のひとりには美人の恋人がいたんですけれど、木下さんは、その女性をご存知で「あんな綺麗な女性から恋人を奪う男性がいるなんて会ってみたい」ということから始まったんです。3点お描きになりました。
五木 そうですか。あの頃は、特別な時代でしたね。錚々たる歌い手が銀座に集まっていた。
美輪 戦時中、音楽は軍によって全部禁止されていましたけれど、進駐軍によって解放されて、まずはジャズバンドが復活したんですね。コンチネンタルタンゴで人気だった原 孝太郎と東京六重奏団なんかもありましたね。アルゼンチンタンゴでは、アコーディオン奏者の早川真平さんがいらしたわね。
五木 タンゴは上野の「金馬車」で、藤沢嵐子なんかをよく聴きました。考えてみると、昭和20年代後半っていうのは、そういう多彩な音楽を生で聴ける場所がたくさんあったんだよね。スター歌手の歌を身近に聴けたんだから嬉しい。夕方銀座を歩けば、常にどこかから歌が聞こえてくる。ちょうど、ポルトガルのリスボンの街を夕暮れに散歩しているとあちこちの店からファドが流れてくるような雰囲気がありました。本当にいい時代だったと思います。それを体験できたのは、ラッキーでした。
美輪 まだ、銀座に柳があった頃ですね。今はもうなくなってしまって残念ですけれど。
五木 でも、美輪さんは、「メケ・メケ」が大ヒットしてから、すぐにスターになって生で聴けなくなったんだ。
美輪 「メケ・メケ」は格好も注目されました。終戦当時、何か目立つ色はないかしらと思って探していたときに、銀座には紫がないことに気がついたんです。そこで、生地屋さんにサテンの生地を洋服用にって言って染めてもらいました。そのシャツとパンツを着ていたら、銀座で美容院を持っていらした山野愛子さんに「いろいろな毛髪用の紫の染め粉が入ったから見にいらっしゃい」と声をかけていただいたの。面白いから行ってみたら、これだって閃いたんですよ。それで、全身紫で銀座を練り歩いたんです。それが評判になって、クラブでもそれで歌ったらマスコミも騒ぎ出して。「メケ・メケ」の原詩は、ハッピーエンドなんですけど、私がそれをひっくり返して、別れの曲にしちゃったんです。馬鹿野郎、情けなしのケチンボ!って具合に。長崎の港で目にしたことがある風情をそのまま歌詞にしたんですけれど、それが当たったんです。散々悪口も書かれましたけれど。
五木 最初は面白半分というか、異様なものを見せられた感じで、一種スキャンダラスな扱いでしたからね。でも、聴いている僕らからすると小気味よい感じでした。女性が男に捨てられて黙っているんじゃないんだから。
美輪 その頃、“神武以来”って言葉が流行っていて、エッセイストの薩摩治郎八さんが、私のことを“神武以来の美少年”と書いてくださったことが大きく取り上げられたことも手伝って、五木さんもそうですが、インテリのかたがたが大勢いらしてくださるようになった。
五木 いや、もう大先輩の作家たちが、その頃、みんな美輪さんのファンだったから。
美輪 売り出し中だった三島由紀夫さんが見えて、吉行淳之介さん、安岡章太郎さん、遠藤周作さんと皆さん連れ立って見えて。それが援護射撃になってくれたんです。
五木 シャンソンの時代だね。その頃、石井好子さんがパリから帰国して、日比谷でシャンソンコンクールを主催したり、日本中をシャンソンが席巻していました。出前持ちの少年なんかが自転車を漕ぎながら、イヴ・モンタンの『枯葉』なんかを口ずさんでいたぐらいに。