Vol.8 海外進出の道は“家族ぐるみ”の社交術で〈タイ進出編(1)〉
「今もまだあるのかどうか・・・、田園調布駅の向かいに素敵なケーキ屋さんがあって、そこを借り切って友人のギー&ヘルガ夫婦が子供服のファッションショーを開催したことがあるんです。店内を可愛らしく飾りつけて、手作りケーキでおもてなしして。彼らの小さな娘たち――2歳半のアーニャ、まだ1歳半だったベスナと、そのお友達がモデルになって次々と登場。お客さまが気に入った服をオーダーする受注会でしたが、私が何に驚いたかって、彼らがそのサンプル服をたった1週間で作ってきたこと。本当にビックリしました」
最初のショーから数年経ったころの家族写真。上段左からリカルド、ギー、万里子、ヘルガ。下段左から万里子の長男・狩(かり)、アーニャ、長女・青(せい)、ベスナ。子供たちを交えた家族ぐるみのおつきあいが続いた。手術をしたばかりの頭にピンと閃いたこと
ケーキ屋さんでのショーの少し前、検診で万里子に脳腫瘍が見つかった。47歳のときだ。東京女子医大病院を知人に紹介してもらい、これはもう、まな板の上の鯉と腹をくくって医師に委ね、何時間にもわたる開頭手術を受けた。
思えば大変なことばかり続いていた時期だった。2年前からヤッコが療養休職、その間すべてを一手に引き受けていた万里子。ようやくヤッコが復職し、すぐに2人でミラノの展示会に出かけた時も、ホテルで何度もめまいを感じていた。検診で腫瘍が見つかって本当によかったのだ。疲れているだけ……と、病に気付けなかったかもしれない忙しさだった。
スタッフを育成し、出張で自分が不在でも会社が回るように体制を整えつつあった矢先の入院だったから、スタッフたちも頑張って、万里子の不在を守ってくれていた。
術後の回復を考えて、思い切ってショートカットに。箱根で療養していたころのひとコマ。ようやく少しずつ普段の暮らしができるようになってきた頃、ギー&ヘルガ夫妻に相談をもちかけられたのだった。ヒッピーライクに世界を廻り、各国の文化を重んじながら独自のネットワークを紡いできた彼ら。「子育てをするならこの国だ」と、日本を拠点に選んだスイスとドイツ出身の国際カップルだ。
「ヘルガは娘たちに可愛い服を手作りしていました。それが保育園で評判になって、作ってほしいと何人にも頼まれるようになって。思い切って、子供服でブランドを起こしたいというのです。
日本でのビジネスは難しいこと、いくつもの手続きが必要なことを伝えましたが、“どうしても!”と彼らの気持ちは揺らぎません。じゃあ!と、受注会形式でショーをすることを提案し、ショーの準備と並行して日本で会社設立の登記の諸々を私が手伝ってあげたんです。私自身はまだ仕事をセーブしていた時期で、時間も作れたし、保証人にもなってあげて。
問題はコミュニケーションをどうするか。私とのビジネスは、日本語をマスターしてからでないかぎりご一緒できない、と言うと、もともと翻訳の仕事をしていたギーは英・仏・独語を操るトリプルリンガルでしたが、なんと1か月で仕事の話ができるほどに日本語をマスターしてきたんです。熱意の塊のような人でした」
パターンの知識がなかったヘルガには夜間の洋裁学校へ通う手引きをしてから、ショーを計画して準備。ショーに間に合うようにと、タイへ飛んで1週間ですべてのサンプルを仕上げてきた彼らを見て「タイには頼もしい縫製工場があるのか?」と、万里子のビジネス・アンテナがピピッと反応した。
タイでミシンを踏んでいたのは素足の少女たちだった
初回のショーが大成功だったギー夫妻。間髪入れずまたタイへ飛んで服を作るというので、万里子は同行することにした。
当時日本では縫製工場が足りなくて奪い合いだったこともあり、「ヤッコマリカルドの服をタイで縫ってみるのもありか?」と考え、まずはようすを見てみたかったのだ。アジア各国の縫製工場を見て回ってはいたが、タイは盲点だった。
万里子たちを迎えてくれたのは、華僑系タイ人のプンスリ・レヴィーラパンというマダムだった。「ホテルなんかじゃなくて、うちに泊まれば?」というので、そうさせてもらう。何部屋もある広い家で、天蓋付きのベッドがある部屋を、「ご自由に」とあてがわれた。
バンコクにはサンペンというチャイナタウンがあり、その中の生地屋でプンスリは縫製も手がけていた。布地を切り売りしつつ、ミシンがけも行うという逞しい商いだ。
サンペンを歩く万里子とギー夫妻。右端がプンスリ。プンスリの仕事を手伝っていたのは6人の10代とおぼしき女の子。プンスリの指揮のもと、指示どおり巧みに服を縫い上げていく。ハサミはおろかテーブルすらなく、中古ミシンがたった1台という環境に万里子は驚いた。そんな状況ながら、彼女たちの表情が輝いていることにも心を打たれた。
「縫っているときの顔が皆とてもうれしそうでね。キラキラと瞳を輝かせているの。びっくりしたことに足踏みミシンを、なんと素足で踏んでいて。まだミシンを踏めない子も交ざっていたけれど、端切れやゴミなどを拾って、なんとかお手伝いの仕事をみつけて役に立とうとしている。いつかは自分もミシンで縫ってみたい、と言うんですね。タイ語しか話せない彼女たちは身振りで私に話しかけてくる。“ここに居たい”と思っていることがひしひしと伝わります。」
放っておけない!と覚悟を決める
日本の縫製工場の多くは、バブル景気で工場経営を2世社長に引き継いでいる、そんなタイミングの時代だった。比べるつもりはなくとも、ミシンがけそのものにイキイキとした情熱を傾けているタイの女の子たちの表情が、帰国してからも幾度となく思い出される。
“うれしそうに、楽しく仕事をする人”と組むのが、ヤッコマリカルドらしいあり方だ。心を決めた。タイに工場を持とう、と。タイの工場と契約するのではなく、タイに自社工場を設立しよう、と腹をくくったのだ。
サンペン近くのワットトック寺の敷地内にプンスリの父が所有していたショップハウス。まずはここに万里子はサンプル工場を構えた。「床で布を断ち、破れそうにペラペラの紙で型をとり、それでも服を縫うことに自分の存在意義を見いだしてうれしそうにミシンを踏んでいるタイの女の子たち。環境を整えて、搾取されないように自社工場で仕事をしてもらいたい、と思ったのです。心の中では、ゼロからのスタートだなぁとつぶやいていました」
外国に会社を設立するには、いくつもの難関を突破しなくてはならない。殊に経理の仕組みは非常に複雑だ。現地の言葉でコミュニケーションをとるべく、通訳は不可欠だと人材を探し、「タマサート大学」の日本語学科に通う才媛イチャヤ・カマーラ(ニックネーム・プラー)を紹介された。
イチャヤ・カマーラ(プラー)と万里子のつきあいは、以後長いものとなる。彼女とのエピソード、そしてタイ工場とナーサリー設立のエピソードは次回の連載をお楽しみに。
さて、タイに自社工場が設立された日、万里子が最初に行ったことは何だったろうか。
「スタッフ全員に、運動靴を支給したのです。とても喜んでくれたけれど、“ミシンの踏み板を踏むなんてもったいない”と言って、最初はミシンの横に大事そうに置いたままにされてましたけれどね」