「相談があります」ある日涼子ちゃんが訪ねてきた。
「先生は貧乏人から自分の力で這い上がったから、他の人たちみたいにガツガツ貰いたがらないし、動物みたいだから信頼できます」
「うーん、今回も褒めてくれているんだよねー?」
涼子ちゃんは続けた。
「父の遺言状についてですが……」
「なんて書いてあったのかな~」と実は興味のない私。
「そこには『全財産は涼子と太郎に託す、涼子の意志で皆に分配しても良い』とありました」
聞けば、それを見た親戚が逆上して「父は呆けていたから無効だ」と主張し、弁護士の制止を振り切って、その場で破いて燃やしてしまったのだという。
「あー、それってよくあることだよ。でもいいじゃないの、君は頑張り屋のお父さんと綺麗なお母さんの遺伝子をもらって今を生き、未来があるのだから」
「親戚たちは今、遺言状を燃やしてしまったために相続に必要な書類のありかがわからなくなり怒鳴り合ってもめてます」
「アハッ……いい気味じゃない」
「馬鹿な人たちです」
しかしこの事件はまだ終わらなかった。程なくして爺さんの親戚たちから私に手紙が届いたのだった。
「故人の遺品の整理をしています、つきましては以下の目録の中から希望の品をお買い上げ頂きたく思います」
何だかなあと思いつつ読み続けてみると……ロールスロイス、掛け軸、舶来クラシックカメラ数点等とある。
はっきり言って、ロールスロイスは新車で買ってそれを長く維持するのが本流であり、中古になると二束三文なのが現実だ。掛け軸は興味なし。クラシックカメラは昔からの趣味なので一応目を通すものの、たいしたものはなかった。
唯一1960年代に製造されたフランス製のFOCA(フォカ)社の革ケース入りアウトフィット(道具一式)が目についたので、少しでも涼子ちゃんに配分が行くことを願い、彼女を通じて買うことにした。100万円の希望価格だったが相場を知っていたので、多少色を付けて30万円で引き取った。
クラシックカメラの中でもライカ、ローライ等の銘機は現代の退化した技術では再生産できない物もある。FOCAは普及品だがフランス人がライカに対抗してレジスタンス的な思想の中で作ったカメラであり、古き良きフランスのエスプリが香る。
そういえば、クラシックカメラには実際に匂いがある。それを生涯にわたり愛した故人の人生の匂いだ。療養の薬の匂い、勤労の汗の匂い、戦争の血の匂い。その中でも幸せの匂いが最上級で、そういった個体ほど年式の割に状態が良い。爺さんのFOCAからは涙の匂いがした。
機体を確かめている時に私は小さく「アッ!」と叫ぶことになる。フイルム室の中に撮影済みのフイルムが残されていたのである。
どうしようかと迷った挙句、涼子ちゃんに返却することに決めた。勝手に現像して爺さんの情事でも写っていたら困るからだ。この時点ではこのフイルムの存在が更なる混乱の原因になるとは夢にも思わなかった私である。
しばらくして涼子ちゃんから連絡があった。
「フイルムのことで大変なことになってます。現像してみたら日本庭園を更地に戻す工事現場が写っていて、最後の数枚に深い穴に落とした木箱の写真があって……」
「どこかに木箱を埋めたということだね」
「権利書や貸金庫の場所を書いた紙が入っている可能性がありますよね?」
私はピンときた。
「ちなみに太郎は写っていたかな?」
「はい、写っていました」
「それなら話は早いよ。場所は太郎に聞きなさい」と私。
しかし涼子ちゃんの答えは私の期待を裏切るものだった。
「太郎はもういません。一緒に暮らしている彼が犬嫌いなので、保護施設に出したのですが死にました」
ああ、何ということだろう。涼子ちゃんはもっとまともだと思っていたのに。
「お父さんの太郎をそんな理由で手放すなんて、涼子ちゃんもみんなと一緒だね」
「私どうすれば……」
「犬を捨てる人なんかに協力はできないよ。永遠にさようなら」
そういって私は電話を切った。
一族は今日も広い更地を掘り続けているのかもしれない。たぶん木箱の中には大切な書類などは入っていないだろう。爺さんの恥ずかしい写真や恋文などが水を吸い土壌細菌に分解され、永遠の眠りにつこうとしているだけだと思う。この世で一番の“Q”は人間の心なのかもしれない。