Vol.9 海外進出の道は、新たな“ファミリー”との出会いから〈タイ進出編(2)〉
「“ファッションビジネス”というフレーズを初めて私が耳にしたのは、若いタイの女の子の口からでした。デザイナーになりたい、ブランドを立ち上げたい、そんな夢は何人もの口から聞いてきたけれど“私はファッションビジネスをやりたいのです”と将来のビジョンをハッキリ口にしたのは、通訳として私に同行してくれていた女子大生。時代を先駆けるいい言葉だな、私がやっていることはまさにファッションビジネスなんだな、とあらためて認識したのです」
言葉はときに魔法のような力を発揮する。万里子のパワフルな仕事に同行しながら、その通訳の大学生は“私もあなたのようなファッションビジネス家になりたい”とビジョンを明確にし、未来の切符を掴んだのだから。
最初は外国人企業家と学生通訳という関係だった万里子とイチャヤ(右)。タマサート大学の卒業式に付き添ったときの一コマタイの大学生の熱い正義感
タイとの関わりは、友人であるギー夫妻の子供服ブランド立ち上げのサポートがきっかけだった。とはいえビジネスセンスの鋭い万里子は、自分の会社の工場設立も視野に入れていた。
タイの縫製工場や布地問屋とのやりとりを正確に行うために、優秀な通訳が必要と判断。世田谷のサンクアールという美術製作のデザインオフィスにいる友人から「タイでの撮影でコーディネーター兼通訳として雇った優秀な人だから」と紹介されたのが、イチャヤ・カマーラ(後に改名してラリッサナン・カマーラ)という可愛らしい大学生だった。
万里子の頼もしい右腕として、タイでのファッションビジネスに大きく貢献していくイチャヤ。頭の回転が速いだけでなく、社交的で人脈構築にも長けていた。名門タマサート大学・日本語学科に在籍中だった彼女は、物怖じせずハキハキと相手に切り込んでいく。単に耳にした言語を訳するだけでなく、万里子の胸の内への理解が高い。もちろんとても礼儀正しいのだけれど、こんなことがあった。
「中華街の一角にコの字型に連なる“ショップハウス”という5階建ての建物で説明を受けた後のことでした。“あれは絶対にいけない、違法なことです”とプンプンに怒って私に訴えてくるのです」
ショップハウスでは1階をレストランやお店として経営できるのだけれど、役所に申請できる従業員数は9人まで。けれども実際はどこも、その5~6倍のスタッフを上階に囲い、工場作業や厨房作業をさせているのが常だという。
「監査の役人には“袖の下”を渡せば問題ない、この街の通例どおりにやればよい、などと言っている相手の言葉を訳すのが、本当に恥ずかしかった、と。それはもう、顔を真っ赤にして怒っていました。ああ、私はこの子となら一緒に“組める”、と感じた出来事でした」
異国の地で会社を設立し、うまく運営するために、文化や慣例を体得していくのはとても大切なこと。けれども“悪しき慣例”にならい、外国人の立場で法に触れるふるまいをすることはしたくない。クリーンな考えをもつ人材を、現地のブレーンに加えることは大きな力となるに違いない。
タイの“さかなちゃん”とともに
タイの人の名前はとにかく長い。長い名前を呼びやすくするために、親しい間柄になると親につけてもらったニックネームで呼び合うのだという。その通訳の女の子は、お魚好きの親御さんからプラー(魚という意味)というニックネームをもらい、兄弟も皆、お魚系のニックネームで揃っているという。
プラー(前列右端)の家族や親戚とともに。後列左端からリカルド、万里子、プラーのお母様、お父様。「お父様はタイ電力の重役に就いておられ、温厚な人柄でビジネスの話が通じる方でした。ファッションビジネス家を志すプラーは頭脳明晰ではあるけれど、まだ大学生。彼女のお父様からタイでのビジネスのアドバイスを聞き、理解をしていきました」
プラーは会社設立後の店舗展開や、広い人脈を生かした広報活動などの展望も描いていた。万里子は、タイの人たちの器用な手先、穏やかかつ素直で知識や技術の習得力の速さを察知し、縫製だけでなく“染色の研究プラント”の展開も見据えていた。
そしてもうひとつ。万里子の胸には熱い思い――女性が活躍できる場をこの土地に――という、使命感のようなものも芽生えていた。
タイの高度成長期前の、もう30年も前のことであるが、ショップハウスの上階で、申請もされず違法に住み込みで働く若い人たちの多さが気になった。いないことにされている哀しさ。労働賃金も搾取されているかもしれない。そんな若い人たちに、堂々と“自分の職場”と誇れるものを提供し、お互いハッピーに働けたなら、と。
万里子が設立した工場は、女性も安心して働ける環境が整えられ、優秀な人材が集まった。講演会受講の機会もあり、美味しい社員食堂も完備。誰もが切磋琢磨していた。タイと日本とロンドンを行き来する生活
タイ工場を設立してすぐに製品化されたシャツ。フラップポケットや、前立ての両サイドにレースを挟むなどの繊細で美しいディテールも際立って。自社工場を設立できる広い場所を確保し、1990年「タイ・ワイエムファッション研究所」を設立した万里子は、まだ20代だったプラーを社長として抜擢した。実はタイのほか、同時にロンドンでのビジネス展開も進めていて、日本でもロンドンでも、万里子はスタッフたちに惜しみなくビジネス知識を授けていたが、プラーは皆の10倍の速さでそれを吸収、ビジネスセンスも行動力も驚くほどにずば抜けていたからだ。
タイでの会社設立の登記的な手続きと同時進行で、タイならではの糸や布・染料での研究や調達にも万里子は明け暮れた。さて、ミシンや染色釜など工場設備に必要なものを日本から送る、サンプルを日本とタイ間で往復させるといった税関手続きに始まり、海外進出は複雑で苦労の多いことの連続だ。万里子が、いったいどのようにタイ工場を整え、時代を先取りした研究プラントを実現し、めざましい店舗展開を実現したのかは、また次回の連載をお楽しみに。