「私ね、来月の10日になれば株を売却した代金が入る予定なの。だから、ちょっとそれまで、お金を貸してもらえるかしら?」
右手で前髪をかき上げて、緊張した表情である。
いくらくらい必要なのか、金額を聞く前に私は答えていた。
「ごめんなさい。私は親族や友人と、お金の貸し借りはしないことにしているのよ」
「あら、でもね、たった1000万円でいいのよ。すぐに返すんだから用立ててもらえない?お願い」
千波さんに言われてドキリとした。夫の年金とわずかな貯蓄を切り崩しながら暮らしている私にとって1000万円なんて、途方もないほどの大金だ。頭を下げて「とても無理だわ」と断った。
それでも彼女は不満だったのだろう。利息は1割付けるとか、証文も書いて来たのにとか、しばらく粘っていたが、私が首を縦に振らなかったので、あきらめてその日は帰っていった。
今になると、私はいささかの悔いを感じる。なぜお金が必要なのか、もっと親身になって聞いてみるべきだった。そうすれば、千波さんにお金を貸したというわけではない。どんな理由があっても、お金の貸し借りはしないが、千波さんが抱える問題の深層に触れていたら、多少の助言が出来たのではないかと思うのだ。その後も千波さんから何度か電話があった。
そうこうしているうちに1月が過ぎて2月になった。ものすごく切羽詰まった声で千波さんがどうしても私の家に訪ねて来ると電話口で言う。無下にも断れなくて承諾した。
現れた千波さんはさらに痩せて、枯木のようだった。私は心配になった。何かが彼女の身に起きている。
「話して。全部話して。お金のことでしょ」
とにかく長い付き合いで、彼女の家庭のことはよく知っている。旦那さんはいたって常識的なサラリーマンだったし、夫婦仲も円満だった。私は今でも娘さんたちと年賀状のやり取りをしている。
やっと彼女が絞り出した言葉に私は驚愕した。
「やられたのよ。3000万円。主人の保険金をそっくり。だけどね、テッドが悪いわけじゃないのよ。彼の会社の上司が悪いの。テッドだって困っているの」
まったく意味がわからない支離滅裂な説明をする彼女の声にじっと耳を傾けていたら、ある程度の事情は理解できた。
人間は、ものすごく大きな失敗をしてしまった時、無意識に言葉を選んで、なるべく自分には落ち度はなかったというふうに説明したがるものだ。だから、私が千波さんの打ち明け話から、そんなにはっきりした経緯を知ることが出来なかったのも仕方がなかった。あまりにとんでもない話で、彼女自身もその現実をまだ体内で消化し切れていなかったのだろう。
とにかく彼女はある日、香港在住の日系3世だというテッド・タカヤマと名乗る男性とフェイスブックを通じて知り合った。千波さんは71歳で、相手は44歳だ。日本語が堪能で、大手の証券会社に勤務。妻とは離婚して独身とのふれ込み。
写真で見たあなたの美しさに一目惚れをしたと臆面もなくテッドは彼女を褒めたたえた。いかにもエリートサラリーマンという感じの細面のハンサムで、目元がきりりとしていたという。
千波さんのプライバシーを守るために、これ以上詳しくは書けないのだが、たまたまテッドの上司の飯沼さんという人が、亡くなった酒井さんの知り合いだったため、彼女はすっかりテッドを信用してしまった。
もちろん、今から考えると、その上司がはたして本当に酒井さんと知り合いだったかは疑問だ。千波さんは旦那さんの口から証券会社の役員である飯沼さんの名前など耳にしたことはなかった。しかし、飯沼さんは、彼がデパート勤務だったことや年齢やすでに故人であることを知っていた。
千波さんとテッドのメッセージのやり取りが、どのように行われたのか私にはよくわからない。メールとラインが精一杯で、SNSやフェイスブックなどにタッチした経験がないからだ。しかし、千波さんの語るところでは、テッドは一日に何回も連絡をよこし、そこには忙しそうに香港やニューヨークを歩く写真も添えられていた。
(後編に続く)
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。