ところが、ネット配信の記事で『毒の恋』という本が紹介されているのを見た。著名な女性漫画家の井出智香恵さんが、ロマンス詐欺に引っかかり7500万円も奪われた実録なのだそうだ。すぐに取り寄せて読んでみた。
井出さんは70歳の時にハリウッドの有名スターを名乗る男性とチャットでやり取りをして、プロポーズされた。もし本人なら彼女より20歳近く若いはずだ。半信半疑だった井出さんは、相手の巧みなリードでいつしか恋に陥ってしまう。しかし、もちろんこれは真っ赤な偽者だった。
第三者の立場からすれば、なんでこんな噓くさい話に惑わされて大金を送金をしたのかは疑問である。でも、井出さんはまことに正直にその経過を述べている。私は読みながら何度も感嘆した。小説だってノンフィクションだって、通常ではあり得ないストーリーの展開が、いつでも読者の心を惹きつける。
だが、自分のことを書くには、いささかの勇気と客観性が求められる。これだけひどい詐欺師に騙されたら、それを冷静に書くことなど、ほとんど不可能に近い。もし私だったら、絶対に隠し通して、忘れたふりをするだろう。その点、彼女の潔さは見事だった。さすがは日本の漫画界で名を成した人だ。すべて包み隠さず述懐している。
井出さんの本の内容について、ここで詳細に触れることはしたくない。なぜなら、これからこの本を読む人に『毒の恋』という作品の滋味をじっくり味わって欲しいからだ。
簡単に述べると、井出さんは才能に溢れた優しい性格の女性だ。家族もいるし、仕事も順調。けして寂しい老女ではない。むしろキャリアの面では華々しい成功を収めている。
しかし、詐欺師は次から次へと新手の口実を打ち出して、彼女を騙す。まったくもってプロの仕事としか思えない。こんなに一生懸命に他人のお金をくすねるためにエネルギーを使うなら、まともに働いたって生計は立つだろうにと余計なことを考えてしまった。
いずれにしても、井出さんの著作を読んで、私は初めて千波さんの行動や気持ちが理解できた。たとえ一度も実物に会わなくても、詐欺師にかかったら、十分にセクシーな場面を演出できるのだ。実際に肉体的な契りを結ぶよりも、ある意味ではもっと濃厚な心の接触が可能なのだと知った。それを実際に体験した本人が書いているのだから、説得力は抜群である。今年読んだどんなノンフィクション作品よりも迫力に溢れていた。
おそらく千波さんは、若くしてサラリーマンの夫と結婚して普通の日々を過ごして来たのだから、テッドの甘い言葉の数々に舞い上がったのだろう。胸のときめきと喜びは3000万円の代償を支払っても惜しくなかったに違いない。それはまだ自分が女として認められている証左でもあった。
しかし、私は井出さんの文章から、ずいぶん学んでもいた。詐欺師は相手の女性から搾れるだけお金を搾り取ろうとする。油断は禁物だ。千波さんを守るために、すぐに彼女の娘さんたちに連絡を取った。事情を話し、これは国際ロマンス詐欺だから、お母さんとよく話し合って、もうこれ以上のお金は絶対に振り込まないようにして欲しいと頼んだ。
その前に、テッドが在籍したという香港の証券会社なるものが、実在しているのかを香港に住む友人に調べてもらった。案の定、そんな会社は存在しなかった。
国際ロマンス詐欺なんて、自分には起きないと思っている人は多い。しかし、相手は想像を絶するほど巧妙である。しかもチームを作って接近して来るのだ。私だって、気がつけば彼らのシナリオに踊らされるかもしれない。防衛のための有意義な教科書が『毒の恋』である。現代を生きるシルバー世代の女性には、ぜひ一読を勧めたい。
工藤美代子(くどう・みよこ)ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。