桜花爛漫 桜を守り、伝えるということ 第2回(全12回) 春が来るたび、私たちの目を楽しませ、心癒やしてくれる桜。地域の子どもたちからプロフェッショナルまで、私たちの“宝”を守り、未来に繫げる桜守の物語とともに、とっておきの桜絶景をご紹介いたします。
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3年ぶりに開催された昨年の旧正門前。下の明治時代の写真と同じアングルで。手前左の桜は「関山」。八重咲きでグラマラスな品種。「桜の通り抜け」のスタートは明治16年。当時の造幣局長の「市民とともに楽しもうではないか」という発案により始まり、今年で140周年を迎える歴史的な花見行事となりました。もとは江戸時代に藤堂藩蔵屋敷で育成していた“里桜”を、造幣局が敷地とともに引き継いだことに由来します。
記録が残るところでいえば、明治42年時点では18品種287本で、一重の「芝山」が半数を占めていたといいます。大阪で重工業が発展する大正時代に入ると、煤煙により桜が枯死することが増え、一重八重の「御車返(みくるまがえし)」が主流に。
昭和12年の調査では、「普賢象(ふげんぞう)」が94本、「御車返」52本、「芝山」が38本と続き、総数として538本、56品種となっています。現在、最多本数の「関山(かんざん)」(約60本)は大気汚染問題が持ち上がった昭和30年中頃から増えたそうで、長い歴史の中では、主要な品種が大きく変遷していることが窺えます。
平成17年には史上最多となる114万7000人の来場者を記録するなど、名実ともに大阪の「春の風物詩」となった「通り抜け」ですが、コロナ禍により、令和2年・3年の2年間は太平洋戦争以来となる開催中止を余儀なくされました。
その間、苦難の状況にあっても、いつもと変わらず、桜並木をきちんと見守り、支え続けたのが、桜守たちでした。そして2022年、制限付きながら「通り抜け」が復活開催され、満開の桜が3年ぶりに披露されています。
明治から令和へ―ここ造幣局では、140年にわたり、桜を守ろうとする意思の襷が、脈々とそして確かに受け継がれているのです。
造幣局創業当時の錦絵。この周辺が古くからの桜名所であったことがわかる。左・見学者に配布された令和4年のリーフレット。右・数世代にわたって近隣の小学生が見学に訪れた。花弁数30~40枚ある鎌足桜。 古写真・図版/造幣局 撮影/本誌・西山 航
『家庭画報』2023年4月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。