三熊派の残照
三熊派の重要な特徴に、4人のうち2人が女性画家だったという点がある。特に、決して散ることのない満開の、しかも生命力豊かな若木を描いた織田瑟々(しつしつ)の桜画は、他の画家とは異なる強い個性を湛えている。
実は瑟々は、あの織田信長の末裔だったとも伝わるがその人生は波乱に満ち、生涯に二度夫と死別し、しかも桜画の継承者となるはずだった一人息子にも先立たれるなど、54年の人生は波乱に満ちていた。そのような出来事もあってか後半生は尼僧となり、生まれ故郷の近江・川合寺で世評とは無縁に、静かに筆を執り桜花を描き続けた。
だが今日、瑟々が遺した桜画を見れば、それが三熊派の「到達点」を雄弁に物語るものであることは明らかだろう。実は近年、幕末明治期の桜画家・桜戸玉緒(さくらどたまお)(1828~1896)の手元に、何かの縁あって、瑟々が描き遺した膨大な桜花の写生図が伝わっていたという証言も見つかった(木田則子「宮崎玉緒の伝記的研究」、『上方文藝研究』第18―19号)。
そのような事実にもまた心をとめて、この春のひととき、笹部コレクションを前にして、桜に憑かれた人々の人生に、思いを馳せてみては如何だろうか――。 (文・今橋理子)
織田瑟々 扇面桜花図19世紀前半
瑟々作品としては貴重な扇。20歳前後の若描きの作品。「保存良。おそらく師、三熊露香女に桜画を習い始めて間もなくの作品であらう。」(笹部新太郎『桜文献買入控』より)白鹿記念酒造博物館にて、担当学芸員とともに織田瑟々作品の軸装を確認する今橋理子さん。桜画を契機とする同博物館とのつきあいは、1994年から。桜だけを描いた幻の絵師たち
三熊思孝の意思を受け継ぎ、桜だけを描いた4人の絵師たち。「笹部さくらコレクション」の中から、その代表作と略歴を紹介します。
右・三熊露香 糸桜図18世紀後半
?~1801年頃。三熊派の始祖、思孝の妹。兄の傍らにあって、思孝が生み出した桜画技法を、直接手ほどきを受けた最も忠実な継承者。兄が着想した「三十六花撰」作品を最も多く残し、品種の描き分けという意味では兄を凌駕していた。墨や藍色で描いた独自の個性的な桜画もある。糸桜(枝垂桜)を好んで描き、気品のある画風が特徴。生い立ちや画歴については不明点が多い。中右・広瀬花隠 禁中左近桜図19世紀前半
1772?~1849年頃。思孝の弟子。狩野派から出発し、40代で桜画に転向。全体的に硬質な作風で、文人画に近い趣を持つ。特筆すべき画業は、京の御所の正殿(紫宸殿)の南庭に植えられた左近の桜を、初めて描くことを許された名誉を持つ画家ということで、朝廷より「海内桜画仙」なる雅号を賜り、名声を得る。文化15(1818)年3月以降、生涯にわたり、何度か描いている(少なくとも8点伝存)。中左・織田瑟々 異牡丹桜 真図文政8(1825)年
1779~1832年。露香の弟子。十代の若き頃、露香とともに京都の画壇で活躍した形跡がある。最初の夫に先立たれた後、故郷、現滋賀県東近江市に戻り、尼僧画家となる。左作品のように竪幅の画面左下より斜め上に向かう、ダイナミックなS字形構成を確立した。その他、力強い幹や枝ぶり、根元から伸びるひこばえ、根あがり、長く跳ね上がった葉先など、“瑟々様(よう)”ともいえる独自の表現を持つ。一輪ごとに花の表情を繊細に描き分けている。「異牡丹桜」は、瑟々の十八番。左・桜戸玉緒 山桜・伊勢桜添図19世紀
1828~1896年。京都で活躍した近江出身の国学者・医者で桜だけを描いた画家。趣としては、広瀬花隠の硬質な画風に通じるものがあるが、三熊派との直接的な師弟関係は確認できない。近年、織田瑟々が描き残した膨大な桜花の写生図が玉緒に伝わっていたという証言が見つかり、何らかの影響を受けていたことが分かる。「保存もよく(中略)玉緒筆として大幅は珍らしとして買入。」(笹部新太郎『桜文献控Ⅰ』より) 撮影/本誌・西山 航 桜画・肖像写真すべて/西宮市笹部さくらコレクション:白鹿記念酒造博物館寄託
『家庭画報』2023年4月号掲載。
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