平泉は平安時代後期に、奥州藤原氏の3代にわたる繁栄があった土地。そして、頼って落ち延びてきた源 義経が、最期を迎えた土地。清衡は、中尊寺を建立、息子の基衡も、都市作りを推進し、毛越寺を再興。3代目の秀衡も、宇治の平等院を模して「無量光院」を建立、陸奥守に任ぜられるなど、政治的にも経済的にも文化的にも、奥州の地に花を咲かせた藤原氏。
しかし、義経がこの地で壮絶な死を遂げ、奥州藤原氏の栄華も幕が下ろされることになる。一ノ谷・屋島・壇ノ浦などの合戦で力を出し、源平の戦において独断専行の動きを示したと、兄の怒りを買い、追われる身になった義経は再び秀衡を頼って平泉に入ったのだが、壮絶な戦闘の中、義経は衣川の館において自ら命を絶つ。
更に頼朝は、長く義経をかくまっていたことを罪として、奥州出兵を断行。芭蕉はこの地で思う。まさに「盛者必衰の理」をそのまま体現するかのような3代の栄華。人間というもの、戦争というもの、歴史というものについて、さまざまなことを感じさせられる奥の細道、平泉である。
選・文=加賀美幸子(アナウンサー)「三代の栄耀(えよう)一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡(あと)は一里(いちり)こなたに有(あり)」。清衡・基衡・秀衡の三代にわたる栄華・栄耀、「大門」とはまつりごと政治を行う館の大きな門、その門も破壊され、義経を大事に守ってきた秀衡の館跡は田や野原となって、跡形もない。
「『国(くに)破(やぶ)れて山河(さんが)あり、城(しろ)春(はる)にして草(くさ)青(あお)みたり』と笠(かさ)打(うち)敷(しき)て、時(とき)のうつるまで泪(なみだ)を落(おと)し侍(はべ)りぬ。夏草(なつくさ)や兵(つわもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)」
……芭蕉は、杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」(安禄山の乱によって、国の都である長安はすっかり破壊されたが、周囲の自然は昔のままの姿である)という詩を口ずさみ、笠を敷いて腰をおろし、涙をこぼしながら長い時間を過ごした。そして、有名な一句「夏草や兵どもが夢の跡」を記す。
人は何時の時代も戦う。芭蕉の俳句は今も続くのである。
イラスト/髙安恭ノ介 ・
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