「人の一生は重荷を負て 遠き道を行くが如し 急ぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし」『東照公御遺訓』家康が生まれた愛知県岡崎城の家康像。竹千代像が隣にあり「出世ベンチ」と呼ばれている。©HIDEAKI TANAKA/SEBUN PHOTO/amanaimages日本人は、「家康の子」である
〔歴代将軍が庇護した「三保の松原」〕家康が眠る久能山東照宮から程近い景勝地「三保の松原」。初夢に出てくると縁起がよいとされる「一富士、二鷹、三なすび」は、すべて駿府の地で家康が愛したもの。家康はこの富士の絶景を間近に見ながら、天下統一を目指した。©HIDEAKI TANAKA/SEBUN PHOTO/amanaimages礼儀正しく、真面目で、ちょっと堅くて、控えめで、我慢強く、勤勉――落とした財布が世界でいちばん戻ってくるといわれる国、日本人のアイデンティティ、気質を作ったのが、徳川家康だといったら驚かれるでしょうか。
作家の長屋良行さんによると家康が天下統一を果たす「以前」と「以降」では日本人の性格は全く異なり、戦国時代の日本人は下剋上の時代にあって、親兄弟と争うことも厭わない決して温厚とは言えない民でした。
150年に及ぶ戦乱の世に終止符を打った家康は、軍事の力ではなく、教育の力によって、争いのない泰平の世を築こうとします。すなわち、礼節や上下関係を尊ぶ儒教道徳を寺子屋や藩校で徹底的に教え込み、日本人の気質を変えていったのです。日本人の意識改革を行ったといってもいいかもしれません。
また、詳しくは後日公開のコラム「日本人の気質の原型は三河人である」(『家庭画報2023年5月号』66ページ)に譲りますが、江戸時代の支配階級である大名の約7割が三河・尾張の出身者で占められることから、現代の日本人の性格に多分に影響しているといわれています。冒頭の日本人の気質は、三河人の気質そのものです。
鉄砲を捨て、「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」(穢れた世の中を正し、平和な世の中を創る)を旗印に掲げた家康の本質をひと言でいえば、平和を希求し、その礎を築いた人ということになります。
家康が築いた世界にも類を見ない260年に及ぶ徳川による「天下泰平の世」は、「パクス・ロマーナ(古代ローマによる平和)」になぞらえ、「パクス・トクガワーナ」と呼ばれています。
神君生誕
〔『東照社縁起絵巻』狩野探幽筆(部分)〕徳川家康の生誕から没後の神格化までを描いた狩野探幽による縁起絵巻。巻一御誕生。家康は三河国岡崎城において、1542(天文11)年12月26日、「寅の年、寅の日、寅の刻」に城主・松平広忠、母於大の方の間に、嫡子として誕生。日光東照宮所蔵 『家庭画報』2023年5月号掲載。
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