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徳川家康が、最も愛した駿府。「臨濟寺」で家康直筆の書を見る

2023.04.19

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徳川家康の秘密 第3回(全26回) 東海道で結ばれる出世の道を巡りながら、人間・徳川家康の実像と、意外に知られていない現在の日本人と家康との関係に迫ります。前回の記事はこちら>>

徳川宗家19代当主・家広さんと訪ねる「家康、出世の道」


天下統一を果たす徳川家康の出世の大きな流れを居城で追えば、岡崎城→浜松城→駿府城→江戸城→駿府城となります。艱難辛苦の中でその間を行き来することはあっても、この東海道から離れることはありませんでした。

今年、60年ぶりに徳川宗家の代替わりが行われ、19代を継承した徳川家広さんとともに、人間・徳川家康の実像に迫る出世の道を辿る旅に出かけました。

前回の記事「久能山東照宮」はこちら>>

臨濟寺


幼少期、竹千代が、太原雪斎に学んだ古刹へ


家康が、最も愛した駿府を巡る臨濟寺は駿河の戦国大名、今川義元の軍師だった禅僧、太原雪斎(たいげんせっさい)が、京都・妙心寺の大休宗休(だいきゅうそうきゅう)禅師を招いて開山した古刹。住職の阿部宗徹 無底窟老大師の「先代ご夫妻がいらしたときと同じしつらいに」という心配りから、花入れには家康手接ぎの西湖梅と唐椿が生けられていた。

徳川家広さん(とくがわ・いえひろ)1965年東京都生まれ。徳川家康を始祖とする徳川宗家19代当主。2023年1月1日、60年間当主を務めた18代の父・恒孝さんから宗家を継承。徳川記念財団理事長、政治経済評論家。

家康が、最も愛した駿府を巡る
竹千代君手習いの間
竹千代(家康)が義元の人質だった8歳のときから雪斎のもとで字を習い、史書や儒教、兵学などを学んだ部屋。一度焼失し、江戸時代に復元された。雪斎が竹千代の人格形成に与えた影響は大きく、天下泰平の礎はこの小さな部屋で築かれたともいえよう。

家康直筆の書


家康が、最も愛した駿府を巡る

「あまりうまくないところに味わいがありますね」と家広さんが微笑みながら評した家康の書。住職がこの日のために特別に蔵から出して、竹千代君手習いの間に掛けてくださった。

家康が、最も愛した駿府を巡る


今川義元の人質として過ごした8歳から19歳までの日々、江戸に移る前の5か国統治時代、そして将軍職を秀忠に譲り、大御所(引退した将軍の敬称)として幕府の実権を握っていた晩年。徳川家康は実に3度にわたって駿府に暮らし、1616(元和2)年4月17日に駿府城で世を去るまで、ほかのどの地よりも長い時間を過ごしました。

最初の駿府時代、家康は人質という身分でありながら、概ね不自由なく暮らし、太原雪斎(たいげんせっさい)禅師から英才教育を施されます。雪斎はもともと義元が幼少に学問の手ほどきを受けた師。義元の家康への期待が大きかったことが窺えます。

久能山東照宮の姫岡宮司は「その頃の印象がよかったので、晩年は食べ物がおいしく、暖かい駿府で過ごそうと思ったのではないでしょうか」と話します。家広さんは、静岡の食と気候のよさに賛同しつつ、家康が好んだであろうもう1つの要素として、文化水準の高さを挙げました。

「応仁の乱の後、今川家は京都から逃げてきた人たちを大勢保護したので、駿府は非常に文化水準が高かった。東日本随一の文化都市だったのではないでしょうか。そして、家康の視点で見ると、駿府は、繁栄していた今川家で帝王学を学び、戦をせずに5か国を統治し、天下人として平和の礎を築いた地。いい思い出しかないと思います」

家康が最も愛した駿府を巡る旅は、家広さんの温和な笑顔で締めくくられました。

臨濟寺


家康が、最も愛した駿府を巡る

家康が、最も愛した駿府を巡る
臨済宗妙心寺派の禅寺。修行寺院のため通常は拝観不可。年2回、今川義元の法要を行う5月19日と摩利支天祈禱会を行う10月15日のみ特別公開。上は竹千代の硯。

静岡市葵区大岩町7-1
TEL:054(245)2740
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